トビ

トビは、別に珍しい生き物でもないだろうが、我が家の庭で見ることは、意外となかった。たまたま庭から見える電柱に止まっていたので、写真に撮った。




(2015/04/04 撮影)

我が家は、海岸からそれほどは離れていないと思うのだが、トビの探索範囲からは外れているのか、上空を舞っているのもあまり見ることがなかった。海岸でたっぷりエサがあるので、内陸まで入り込むこともないのだろうか。


これで、我が家で見られた鳥は、14種になった。まだ写真に撮れていない種類も何種類かある。当初は、10種類を超えればと思っていたが、次の目標として20種を目指したい。

太陽光発電装置を設置する意義2:人生との関わり(車との対比)

前回、太陽光発電の環境に対するメリットを一生懸命考えたのだが、あまり目ぼしいものは思い浮かばなかった。そのときに、車を購入することとの対比を、少し考えた。

ちょうど、我が家の太陽電池は、車を購入するのと同じような出費だった。実際には、私の場合には、今乗っている車より高かったのだが、高級車に乗る場合には、車のほうが高いことになって、人によって多少の差はあるのだろうが、いずれにしても、数百万単位の買い物になるだろう。それに、どちらも10年くらいの単位で計算をして、10年後にどのような生活をしているか考えるのではないか。ところが、お金の収支については、まったくの正反対になる。

そこに関わる経費として、車の場合には税金を徴収されるのに対して、太陽電池の場合には補助金までくれる。その違いは、他人に対して迷惑をかけるかどうかだろう。車の環境に対する悪影響は、数え上げればきりがない。それでも、税金を払ってでも車を持ちたくなるのは、持つ人にそれなりのメリットがあるからだろう。たしかに、車を持つかどうかで、生活様式は一変する(良いか悪いかは別にして)。

ところが、太陽光発電を設置したからといって、生活はほとんど変わらない。せいぜいが発電の多少を気にするぐらいのものである。発電のモニターをチェックするにしても、最初の一年くらいは季節変化など気になるだろうが、すぐに飽きてしまう。結構な金額を使うにしては、なんとも生活に影響しないものである。

車の場合には、車種によって性能に差があって、どういう目的で使うかで、どのような車種を買うのか、あれこれ考える。ところが太陽電池の場合には、目的は発電だけである。発電効率に多少の差があったとしても、その分値段が高くなるのだろうから、結局設置費用を回収するのは、同じということになる。それに、発電効率は、立地条件(一日及び年間の日照時間)で決まることの方が大きい。要は、設置費用が何年で回収できるかだと考えれば、性能よりも値段がすべてということになる。

車は、使えば使うほど、価値が下がってくる。最後は下取りに出すとしても、使った分だけ価値が減っている。ところが、太陽電池は、耐用年数はあるようだが、元をとったうえで、さらにその後は発電分が丸儲けになることを想定している。

そんなことを考えると、太陽光発電で、補助金までくれるのが、不思議になってくる。誰のメリットのために、公的なお金が払われるかである。おそらく、環境に対するメリットに、太陽光発電の普及を加速させるメリットということだろうか。

車でエコカー減税というのがある。たしか私の車もそれに該当したと思うが、車が社会や環境などのいろいろな面で迷惑をかけることからすれば、排ガスが少しくらい減ったというだけで、何万円もの金額を免税にするのはおかしいと思う。しかも、そのことで車の売れ行きにも影響するのだから、自動車産業に対する補助金をばらまいているのではと疑いたくなってくる。

何年か前に、エコポイントというものがあった。我が家でも、冷房機能しかなかった“エアコン”を新しいものに換えたが、エコポイントバブルで、その後一気に値崩れしたことからすると、エコポイントのおかげで、値段が高止まりしていたのだった。

ちょうど同じことが、太陽光発電設備にも言えるのだろう。補助金の額と売電料金の上乗せ分から、何年ぐらいで元が取れるかで、値段が決まってくる。概算では10年前後で、元が取れるという値段設定になっているらしい。この10年前後ということで、プラスマイナスの数年が、大きな不公平となることは、前に触れた。


いずれにしても、値段の計算がすべてである。補助金や売電料金の上乗せなしでは売れないのだから、太陽電池のメーカーは、商品としては成り立たないものを売っているようなものだろう。もちろん、耐久性などの点で、メーカーによって差がでるのかも知れないが、多くの場合に長期保証も付いているようだ。そうすると、やはりすべてが値段の計算となってくる。

この点で、ハイブリッドカーが燃費の良さで売れていることと対照的なようだ。こちらもエコカー減税などの計算が働いているのかも知れないが、少なくとも、太陽電池にはそのような性能上のメリットがほとんどない。太陽電池に求められる改良は、とにかく値段を安くすることだろう。


我が家では、太陽光発電の設置工事を、友人のリフォーム会社に依頼した。そこでも、太陽光発電で儲かっているようには思えない。私が買った2012年には販売のチャンスということで、社員が工事の資格をとったりしたようだが、なにしろ設置できる家と、費用を負担できる人が限られていて、誰もが注文するようなものではないらしい。最近では安値競争になっているだろうから、一時のバブルに浮かれたということになるのではないか。


太陽光発電のことをあれこれ調べていると、〈太陽光発電〉に〈利権〉や〈政商〉などの単語の組み合わせとともに、孫正義をはじめとするいろいろな人の名前が出てくる。それだけ、太陽光発電に群がっている人がいるということらしい。私の家の太陽電池は、ダイキンという企業のものだったが、その製品を作っているのは京セラということだ。そこの経営者のことも、いろいろ書いてある。それぞれの人達の評判について、その真偽はわからないが、クリーンな太陽光発電と思っていたものが、ドロドロしたものに見えてくる。今となっては、太陽光発電を推進しようとしている人たちを見ると、逆に、その人の背後になんらかの人脈や思惑があるのではないかと思えてしまう。

このところの安倍政権の政策を見ていると、原発を推進したいがためか、自然エネルギーには冷淡なように見える。一方で、自動車産業などは、アベノミクスによる円安で、ウハウハらしい。環境のことを考えるならば、逆のことばかりをやっているように見える。

今の家に住み始めた6,7年ほど前に、太陽光発電を検討したときに、設置している人たちの体験談が、インターネットに書かれていた。環境に貢献するという自負や、高い志が掲げられていた。それは、どのような車を購入するかということと同じで、お金を支出して新たな生活を選択するということでもあったのだろう。それがいつのまにか、お金の計算だけのものになってしまったようだ。

太陽光発電装置を設置する意義1:環境との関わり

2013年の4月末に「太陽光発電の不公平さへの補足」という文章を書いてから、まる2年になろうとしている。我が家に太陽電池を設置してからだと、2年半になる。この間に、太陽光発電に対する状況もずいぶん変わったと思うが、以前に少しずつ書いていたことを、今の状況も加えながら、書き連ねて行きたい。


なんのために太陽電池を設置するかは、人それぞれだろうと思うが、私の場合には、環境問題への貢献が第一の理由だった。もちろん、この一連の文章で、元が取れるかどうかの問題や、売電料金の不公平さを書いていることからして、お金の計算も多少はしている。大儲けをしたいと思わないが、損もしたくない。環境問題に協力しつつ、電気代が浮くようになるのならば、理想だと思っていた。

ところが、売電料金には、あらゆる人から徴収した〈上乗せ分〉があるから、それを受け取ることに後ろめたさがつきまとう。そうすると、そこまでして太陽光発電を推進する理屈が成り立つかどうかが、問題となってくる。


あらかじめ述べておけば、私は“地球温暖化”という問題を信じていない。今どき、この問題に不信をもらす人は、珍しくもないのだろうが、〈地球温暖化のウソ〉などの項目で検索すれば、地球温暖化にまつわる胡散臭さやいかがわしさは、いっぱい出てくる。どのデータを信じて、どれを無視するかについて、明確な科学的な判断基準を持ちあわせているわけではないが、少なくとも身近な科学者を見ていて、“地球温暖化”を口走っている人たちを、あまり信用していないことが大きい。なんらかの異常と思えるような現象が見られると、ここぞとばかりに地球温暖化を持ちだしてくる。本人たちは、どこまで地球温暖化を信じているのか、あるいは切実に自分の問題と捉えているのか、疑問に思えてくる。いずれにしても地球温暖化に群がる有象無象に見える。

かつて公害と呼んでいた時代に、目の前で汚染や破壊を起こしている私企業の害に対して、地球全体の問題を持ちだしてくることのまやかしは、ある人からさんざん教えられた。その当時には、明らかに有害なものをたれ流して、地域の住民の健康を害していながら、企業の社会的役割だとか別の目的を持ちだして、その罪をなかなか認めようとしなかった。そんなときに、地球全体の環境問題を持ちだして、エネルギーや食糧問題や人口問題こそ環境問題だとすることは、目の前の加害者・被害者の関係から目を逸らせる役割しか果たさなかった。

地球温暖化の場合には、二酸化炭素自体はなんら有害なものではない。それで、二酸化炭素を排出することが悪だというために、地球全体に対する人類の影響を持ちだして来る。ところが、問題となっているのは量が増加することである。過去に排出した量や、現に排出している量の不平等には、触れない。さらに、原発の事故があったときに、温暖化問題を論じている人たちの中には、実は原発推進者もいることも明らかになった。なんとなく地球全体に対する後ろめたさを演出することで、現状を固定したり、自分のところへ利益を引っ張ろうということが、垣間見えてしまう。


地球温暖化を除外したとしたら、太陽光発電のメリットはどこにあるのだろうか。以下の話は、収支計算の話が多くなる。金銭的な収支計算については、別項目として述べるつもりである。実際のところ、自分のところの収支計算は出来ても、社会全体に関わるところは、わからないことが多い。例えば、原子力発電の発電コストが一番安いと言われていたのが、実はそうではないと言われても、どちらの算定根拠が正しいのか、とても判断することは出来ない。せいぜいのところ、どちらの側の人が信用できそうか、直感的に判断していることも多くなる。

太陽光発電自体は、これまで利用されないまま放置されているエネルギーを利用可能なものとすることで、いかにも技術の進歩だと思える。太陽電池を生産するために投入されたエネルギーよりも、多くのエネルギーを生み出すことができるのならば、それだけのエネルギーを自給していることになる。しかし、そのような収支計算について、本当のところはよくわからない。

また、ピーク時電力の削減に貢献することが挙げられる。我が家の電気使用の現状では、エアコンもほとんど使わないので、元々、需要のピーク時に使う量はわずかのものだった。それに、我が家の屋根から数キロワットを売電したところで、電力会社からみれば、たかが知れたものだろう。しかも、パワーコンディショナーで変換した質の悪い電気を、昼間だけ、小規模に集めたところで、効率の悪い厄介物とみなされるだけだろう。最近、電力会社が、自然エネルギーによる発電に対して、受け入れる量を制限しているのも、理解できないことではない。

単純に電力の質や効率だけを考えるならば、大規模な原発が優れているのだろう。しかし、そのような集中化の結果として、いったん事故が起こったときのデメリットは、今回の福島で示された。いったんことが起これば、自分たちで手に負えないものを、しかも多くの人々に影響を与えるものを、一営利企業が手を出すようなものではないということだろう。

電気がなくなると困るから、原発を動かすのだという論理に対して、少なくとも我が家に関しては、別の発電方式を実践していることになるのだが、いかんせん、昼間のみでは、完全自給までは行かない。

もちろん、日本に暮らしている以上、いくら電気を節約しているからといっても、単純ではないのだろう。自宅では余剰電力を生じているとしても、職場ではそれなりに電気を使っているし、さらに自分が日常使っている製品や食品などが生産されるために使われた電気やエネルギーのことを考えると、結局、他の国の人に比べれば、大量の電気を使っていることになる。

だからこそ、どのような電力を、どのような割合で利用するかは、電力会社の都合や効率だけでなく、社会全体が決めるべきだろう。


それぞれの発電方式で、環境への影響も考えなくてはならない。原発の害は今さら言うまでもないだろう。火力発電も、大気を汚染する。自然エネルギーと言われる水力発電にしろ地熱発電にしろ、自然破壊を伴うものだろう。水力発電のためにダムを建設することによって、どれだけ川の環境破壊や生物に対する悪影響を引き起こしているかは、川を眺めてみると実感できる。しかし、このダムのデメリットは、意外と知られていないようだ。そんな中で、太陽光発電は、比較的環境に負荷の少ないものに思える。

それでも、デメリットも思い浮かぶ。メガソーラーなどは、環境にやさしいとは、とても思えない。太陽電池を敷き詰めた平地よりは、農地や森の方が、環境にやさしいに決まっている。このところ、メガソーラーなどの候補地として挙げられるところは、以前に無理な開発などをして、焦げ付いた土地の有効活用も多いようだ。そこでまた、草刈りや整地のために農薬を撒いたりするのならば、論外だろう。他には使い道のない屋根だからこそ、メリットとなるのだろう。屋根ということでは、我が家の2階は、天井裏が狭くて、夏はかなり高温となったのだが、多少の断熱効果で、暑さがましになったのは、メリットだろうか。

また、太陽電池を廃棄するときに、有害物質が含まれていたりするらしい。産業廃棄物として、適切に処理をされることを期待しているが、そのことも費用計算に含まれなければならないだろう。

最近は、非常用の電源ということもメリットとして挙げられるようだ。しかし、そのためには別の設備への投資も必要となる。通常のパワーコンディショナーからは、1kwを引き出せるだけで、蓄電池もなしで、昼間だけとすれば、およそ役に立つとは思えない。


ここまで考えて来て、太陽光発電で環境へ貢献するものと思っていたが、自信をもって主張出来るようなメリットは、意外と見つからないということになって来た。ここに書いたようなことを、自分の家に導入したからこそ考えるようになったのが、メリットといえばメリットだろうか。

紅まどか

久しぶりに、「ミカン」シリーズも、新しいものを書き足してみたい。





(2015/04/02 撮影)

この紅まどかは、近くの産直の店で買った。大きくなる文旦系にしては、比較的値段が安くて、一番大きなものを買ったのだが、280円だった。生産者の方でも、まだ味に自信がないのでこの値段にしたのか、私が食べたものでは、どこか苦味のような雑味が残る感じであった。それでも、色もきれいで、文旦系の味と香りがするから、育て方がうまく行けば、かなり有望な品種のような気がする。


この紅まどかという品種は、以前から名前を聞いたことはあったのだが、文旦の系統として、明確にこの名前のものが特定できていなかった。以前に、晩白柚として取り上げたもので、紅色のものは、この種類かも知れないと思ったりもしたのだが、今回のものは背が低くて、頂部の方に放射状のシワがあって、底部のほうがややくぼんでいたりして、先に食べたものとは違っている。ネットで、紅まどかで画像検索をすると、背の高いものから低いものまであるようだから、実り具合で、形が違ってくるのかも知れない。


このブログの「ミカン」シリーズも、この前に「佐藤の香」を2014年2月19日に書いて以来、書いていない。ずっと書き続けているときには、意地になって書き続けるのだが、間が空いてしまうと、どうも続かないようだ。実際のところ、2013年からまる一年間で、かなりの種類を取り上げたようで、その後、新しいものはぽつぽつと見つかる程度になっている。それでも、すべての出会った種類を網羅するところまでは行っていないので、今後も書き足して行きたい。

コツバメ

またしても、しばらく書かないで来た。この冬は寒くて、朝の庭の散歩もサボっていたのだが、やっと春らしくなってきて、少しずつ生物の動きも見られるようになってきた。路傍百種についても、サボり癖がついたので、一時期ほどの熱心な観察には戻れないかも知れないが、また新しいものが見つかれば、書き足して行きたい。

たまたま昨日の昼間に、新しいシジミチョウを見つけたので、書いてみたい。



(2015/04/04 撮影)

最初に飛んでいるのを見たときには、青緑っぽい色に見えたので、新しい種類ではと期待した。止まっているの見ると、翅がかなり傷んでいるようにも見えたので、既知の種類の擦り切れたものかと思ったりもした。

調べてみると、コツバメという種類らしい。Wikipedia では、蛹で越冬して、早春のみ出現するらしい。さらに、食草はアセビということで、我が家には生えていないのだが、周囲の山から飛んで来たのか、それともどこかの家の庭にでも植えられているのだろうか。


この前に「路傍百種」を書いたのが、昨年の7月14日の「ムラサキシジミ」で、これまでにシジミチョウで9種見つけているようだから、これで10種目ということになる。

熊楠の曼荼羅とプチプチシート

家でコーヒーを飲んでいて、お菓子を包んであったプチプチシートを、妻がつぶしているのを見ていると、伝染したかのように、つぶしたくなってくる。この一連の過程は、前に掲げた熊楠の曼荼羅に対応するのではないかと思えてきた。




私たちの前に、たまたまプチプチシートがあって、それを押したときに、プチッとひとつの気泡が破裂するのは、単純な因果関係による「縁」だろう。そこから止まらなくなって、ある範囲内のすべての気泡をつぶすというのは、「起」だろう。

この過程は、プチプチシートという「物」があって、そこに働きかける「心」があって、そこから、ひと通りの気泡をつぶすという一連の「事」が生じる。このような「事」の連なりが、「プチプチ」とでも呼ばれる行為の「名」であろう。このような「名」ができてしまうと、今度は、「プチプチ」という「名」を聞いただけで、一連の行動が目に浮かぶし、プチプチシートを目にすれば、つぶす行動をせずにはいられなくなる。これが「印」だろう。

プチプチシートは、本来は緩衝材であって、「プチプチ」をするためのものではなかったはずである。ところが、文化というほどの大げさなものではないが、いったん確立してしまうと、人を支配するようになる。このことが、熊楠のいう「大発明をやらかした」ということで、「名」と「印」が実在するということの意味ではないか。


熊楠の曼荼羅は、真言僧の土宜法竜宛の手紙で示されたものだから、仏教の文脈にからめて、妙に深遠なものとして解釈される。しかし、「物、心、事、名、印、縁起」などを、具体的な文脈に当てはめてみれば、以上のような単純なことで解釈できるように思える。

「事」は「記号」である。

前回、熊楠のいう「事」は、パースの「記号」に対応することを述べた。南方曼荼羅が読み解けた気がして、思わず書いてしまったのだが、もう少し補足したい。そんなことを思っていたら、年が明けてしまったが、2015年の最初の書き込みとしたい。

物と事の区別(以下、モノ・コト論)については、多くの人が論じている。モノ・コト論とは、モノだけでは論じられない何かを指摘するために、コトを“言挙げ”することだろう。ところが、論者によって、どのようなコトを強調するのかが、それぞれ微妙にズレている。つまり、コトにはいろいろな側面があるにもかかわらず、自分の着目することだけに目がいって、他のことには目が入らないのか、あるいは混同していることに気が付かないのか、論者によって、まったく別のことを論じているかのような気にさせられる。結果として、それぞれの議論を、どのようにすりあわせするかで、あれこれ悩むことになる。

熊楠の「事の学」についても、熊楠の独自性は読み取るべきだとしても、多くの解説者が、それぞれ勝手な深読みをすることで、訳のわからないものになっている。パースの記号論を適用することで、熊楠の論理を、記号論や哲学の文脈に翻訳しようというのが、前回の議論であった。ここでは、さらにコトに関して補足したい、

パースの哲学では、カテゴリーとして、第一性から第三性までを区別する。すなわち、対象を単独で考える場合から、二項関係で考える場合、三項関係で考える場合まで、3つの場合に区別される。このパースのカテゴリーを、コトについて適用することで、コトの3つの場合が区別されるというのが、私のアイデアである。

単一のモノについて考える人は、そのモノの状態や動作などのコトを論じる。この第一性のコトは、すぐに一般化されて、言葉や概念などの第三性のコトとなる。またモノとモノとの二者を論じる人は、そこに生じる出来事や事件について、コトを論じることになる。この第二性のコトは、規則性や法則性と結びついて、第三性のコトとなる。通常の言語や論理などは、第三性のコトであるから、人間の思考などは第三性を中心としている。

重要なことは、取り上げられているコトが、一者についてのものか、二者についてのものか、あるいはそれらを包み込むような第三者を介しているかを、区別することである。

熊楠が挙げている以下の例を取り上げたい。

熊楠(心)、酒(物)を見て(力)、酒に美趣(名)あること人に聞きしことを思い出だし(心)、これを飲む(事・力)。ついに酒名(名)を得。

スクモムシ(心また物)、気候の変(事)により催され(力)、蝉に化し(心また物)、祖先代々の習慣(名)により、今まで芋を食いしを止めて(力)、液(物)を吮う(力)。ただし、代々(名)松の液をすいしが(事)、松なき場処に遭うて(力・物の変)、止むを得ず柏の液をすう(事の変にして名の変の起こり)。
明治36年8月8日付け土宜法竜宛て書簡)


一番目の文章は、細かな状況について、どうにでも解釈できるところもあるが、大事なことは、「熊楠 ⇔ 酒」が向き合って二者の関係(隣接関係)になっていることだろう。そこから、いろいろなコトが読み取れる。「熊楠が酒を見るコト」、「熊楠が酒を飲むコト」などは、熊楠の動作と考えれば、第一性であるが、熊楠と酒との相互関係と考えれば第二性となる。「熊楠が酒に向かいながら、美趣を思い出すコト」や、「熊楠が酒を飲んで、酒名を得るコト」は第三性だろう。

二番目の文章は、あるスクモムシ(コガネムシの幼虫らしい)の個体が、いろいろな特性を示すことであるが、それぞれの特性は第一性である。しかし、スクモムシがいろいろな環境に遭遇することは第二性だろう。また時間的変化(近接関係)として、幼虫から成虫へと変態することも第二性だろう。種の特性として固定されて、あらゆる個体がその特性に支配されているのならば第三性だろう。結局、あるスクモムシが、気候の変化、芋、松、柏などに出会いながら(隣接関係になりながら)、いろいろなコトをしていることが描写されている。

「名」と呼ばれるものは、このようないろいろなコトやコトの連鎖が起こり消えていく中で、固定されて残ったものらしい。最初に述べたように、「コト=記号」だとすれば、この「コトの連鎖=記号の連鎖」は、記号過程(semiosis)であり、無数の「コト=記号」の連なり(また意味の連なりでもある)によって、思考していることになる。また、「名」は、コトとコトの連なりを包みこむことであるから、第三性だろう。

さらに、いったん「名」として固定されたものは、独立に機能し、「心」に映して生じるものが「印」となる。このような「名」と「印」の“実在性”を、熊楠は「はなはなだしき大発明」と述べている。

ここで、改めて熊楠の曼荼羅を眺めてみると、3つの「力」が書かれている。1)「物」から「事」が生じるときに、金剛界で生じる「力」、2)因果関係からの「事」において、生じる「力」、3)「事」から「名」が生じたときに、「名」にはたらく「力」である。このそれぞれは、まさに第一性、第二性、第三性に対応している。熊楠は、「事」に作用するいろいろな「力」を指摘することによって、結果的に「事」を分類していることになる。
[2018/07/25 追記:ここでの3つの「力」の説明は、あまり確信がある訳ではない。何に対して働くのか、「事」を生じるときに働くのか、「事」に対して働くのか、熊楠自身も説明していない。「事」に3種類があり、それらが第一性から第三性に対応していると考えたのが、上の説明である]

  
熊楠が、「事」を分類することに、どれくらい自覚的であったかはわからない。それでも、少なくとも「事」にまつわるいろいろな側面を想定していたことは間違いない。熊楠曼荼羅を解釈するためには、少なくとも「事」にいろいろな側面があることを、理解するべきだろう。


[2018/07/25 追記]ここで「事は記号である」と述べたことは、2017年の熊楠研究会でも、パースを引用して説明した。2018年の論文でも、末尾に注として、概略を説明した。