太陽光発電装置を設置する意義1:環境との関わり

2013年の4月末に「太陽光発電の不公平さへの補足」という文章を書いてから、まる2年になろうとしている。我が家に太陽電池を設置してからだと、2年半になる。この間に、太陽光発電に対する状況もずいぶん変わったと思うが、以前に少しずつ書いていたことを、今の状況も加えながら、書き連ねて行きたい。


なんのために太陽電池を設置するかは、人それぞれだろうと思うが、私の場合には、環境問題への貢献が第一の理由だった。もちろん、この一連の文章で、元が取れるかどうかの問題や、売電料金の不公平さを書いていることからして、お金の計算も多少はしている。大儲けをしたいと思わないが、損もしたくない。環境問題に協力しつつ、電気代が浮くようになるのならば、理想だと思っていた。

ところが、売電料金には、あらゆる人から徴収した〈上乗せ分〉があるから、それを受け取ることに後ろめたさがつきまとう。そうすると、そこまでして太陽光発電を推進する理屈が成り立つかどうかが、問題となってくる。


あらかじめ述べておけば、私は“地球温暖化”という問題を信じていない。今どき、この問題に不信をもらす人は、珍しくもないのだろうが、〈地球温暖化のウソ〉などの項目で検索すれば、地球温暖化にまつわる胡散臭さやいかがわしさは、いっぱい出てくる。どのデータを信じて、どれを無視するかについて、明確な科学的な判断基準を持ちあわせているわけではないが、少なくとも身近な科学者を見ていて、“地球温暖化”を口走っている人たちを、あまり信用していないことが大きい。なんらかの異常と思えるような現象が見られると、ここぞとばかりに地球温暖化を持ちだしてくる。本人たちは、どこまで地球温暖化を信じているのか、あるいは切実に自分の問題と捉えているのか、疑問に思えてくる。いずれにしても地球温暖化に群がる有象無象に見える。

かつて公害と呼んでいた時代に、目の前で汚染や破壊を起こしている私企業の害に対して、地球全体の問題を持ちだしてくることのまやかしは、ある人からさんざん教えられた。その当時には、明らかに有害なものをたれ流して、地域の住民の健康を害していながら、企業の社会的役割だとか別の目的を持ちだして、その罪をなかなか認めようとしなかった。そんなときに、地球全体の環境問題を持ちだして、エネルギーや食糧問題や人口問題こそ環境問題だとすることは、目の前の加害者・被害者の関係から目を逸らせる役割しか果たさなかった。

地球温暖化の場合には、二酸化炭素自体はなんら有害なものではない。それで、二酸化炭素を排出することが悪だというために、地球全体に対する人類の影響を持ちだして来る。ところが、問題となっているのは量が増加することである。過去に排出した量や、現に排出している量の不平等には、触れない。さらに、原発の事故があったときに、温暖化問題を論じている人たちの中には、実は原発推進者もいることも明らかになった。なんとなく地球全体に対する後ろめたさを演出することで、現状を固定したり、自分のところへ利益を引っ張ろうということが、垣間見えてしまう。


地球温暖化を除外したとしたら、太陽光発電のメリットはどこにあるのだろうか。以下の話は、収支計算の話が多くなる。金銭的な収支計算については、別項目として述べるつもりである。実際のところ、自分のところの収支計算は出来ても、社会全体に関わるところは、わからないことが多い。例えば、原子力発電の発電コストが一番安いと言われていたのが、実はそうではないと言われても、どちらの算定根拠が正しいのか、とても判断することは出来ない。せいぜいのところ、どちらの側の人が信用できそうか、直感的に判断していることも多くなる。

太陽光発電自体は、これまで利用されないまま放置されているエネルギーを利用可能なものとすることで、いかにも技術の進歩だと思える。太陽電池を生産するために投入されたエネルギーよりも、多くのエネルギーを生み出すことができるのならば、それだけのエネルギーを自給していることになる。しかし、そのような収支計算について、本当のところはよくわからない。

また、ピーク時電力の削減に貢献することが挙げられる。我が家の電気使用の現状では、エアコンもほとんど使わないので、元々、需要のピーク時に使う量はわずかのものだった。それに、我が家の屋根から数キロワットを売電したところで、電力会社からみれば、たかが知れたものだろう。しかも、パワーコンディショナーで変換した質の悪い電気を、昼間だけ、小規模に集めたところで、効率の悪い厄介物とみなされるだけだろう。最近、電力会社が、自然エネルギーによる発電に対して、受け入れる量を制限しているのも、理解できないことではない。

単純に電力の質や効率だけを考えるならば、大規模な原発が優れているのだろう。しかし、そのような集中化の結果として、いったん事故が起こったときのデメリットは、今回の福島で示された。いったんことが起これば、自分たちで手に負えないものを、しかも多くの人々に影響を与えるものを、一営利企業が手を出すようなものではないということだろう。

電気がなくなると困るから、原発を動かすのだという論理に対して、少なくとも我が家に関しては、別の発電方式を実践していることになるのだが、いかんせん、昼間のみでは、完全自給までは行かない。

もちろん、日本に暮らしている以上、いくら電気を節約しているからといっても、単純ではないのだろう。自宅では余剰電力を生じているとしても、職場ではそれなりに電気を使っているし、さらに自分が日常使っている製品や食品などが生産されるために使われた電気やエネルギーのことを考えると、結局、他の国の人に比べれば、大量の電気を使っていることになる。

だからこそ、どのような電力を、どのような割合で利用するかは、電力会社の都合や効率だけでなく、社会全体が決めるべきだろう。


それぞれの発電方式で、環境への影響も考えなくてはならない。原発の害は今さら言うまでもないだろう。火力発電も、大気を汚染する。自然エネルギーと言われる水力発電にしろ地熱発電にしろ、自然破壊を伴うものだろう。水力発電のためにダムを建設することによって、どれだけ川の環境破壊や生物に対する悪影響を引き起こしているかは、川を眺めてみると実感できる。しかし、このダムのデメリットは、意外と知られていないようだ。そんな中で、太陽光発電は、比較的環境に負荷の少ないものに思える。

それでも、デメリットも思い浮かぶ。メガソーラーなどは、環境にやさしいとは、とても思えない。太陽電池を敷き詰めた平地よりは、農地や森の方が、環境にやさしいに決まっている。このところ、メガソーラーなどの候補地として挙げられるところは、以前に無理な開発などをして、焦げ付いた土地の有効活用も多いようだ。そこでまた、草刈りや整地のために農薬を撒いたりするのならば、論外だろう。他には使い道のない屋根だからこそ、メリットとなるのだろう。屋根ということでは、我が家の2階は、天井裏が狭くて、夏はかなり高温となったのだが、多少の断熱効果で、暑さがましになったのは、メリットだろうか。

また、太陽電池を廃棄するときに、有害物質が含まれていたりするらしい。産業廃棄物として、適切に処理をされることを期待しているが、そのことも費用計算に含まれなければならないだろう。

最近は、非常用の電源ということもメリットとして挙げられるようだ。しかし、そのためには別の設備への投資も必要となる。通常のパワーコンディショナーからは、1kwを引き出せるだけで、蓄電池もなしで、昼間だけとすれば、およそ役に立つとは思えない。


ここまで考えて来て、太陽光発電で環境へ貢献するものと思っていたが、自信をもって主張出来るようなメリットは、意外と見つからないということになって来た。ここに書いたようなことを、自分の家に導入したからこそ考えるようになったのが、メリットといえばメリットだろうか。