「事」は「記号」である。

前回、熊楠のいう「事」は、パースの「記号」に対応することを述べた。南方曼荼羅が読み解けた気がして、思わず書いてしまったのだが、もう少し補足したい。そんなことを思っていたら、年が明けてしまったが、2015年の最初の書き込みとしたい。

物と事の区別(以下、モノ・コト論)については、多くの人が論じている。モノ・コト論とは、モノだけでは論じられない何かを指摘するために、コトを“言挙げ”することだろう。ところが、論者によって、どのようなコトを強調するのかが、それぞれ微妙にズレている。つまり、コトにはいろいろな側面があるにもかかわらず、自分の着目することだけに目がいって、他のことには目が入らないのか、あるいは混同していることに気が付かないのか、論者によって、まったく別のことを論じているかのような気にさせられる。結果として、それぞれの議論を、どのようにすりあわせするかで、あれこれ悩むことになる。

熊楠の「事の学」についても、熊楠の独自性は読み取るべきだとしても、多くの解説者が、それぞれ勝手な深読みをすることで、訳のわからないものになっている。パースの記号論を適用することで、熊楠の論理を、記号論や哲学の文脈に翻訳しようというのが、前回の議論であった。ここでは、さらにコトに関して補足したい、

パースの哲学では、カテゴリーとして、第一性から第三性までを区別する。すなわち、対象を単独で考える場合から、二項関係で考える場合、三項関係で考える場合まで、3つの場合に区別される。このパースのカテゴリーを、コトについて適用することで、コトの3つの場合が区別されるというのが、私のアイデアである。

単一のモノについて考える人は、そのモノの状態や動作などのコトを論じる。この第一性のコトは、すぐに一般化されて、言葉や概念などの第三性のコトとなる。またモノとモノとの二者を論じる人は、そこに生じる出来事や事件について、コトを論じることになる。この第二性のコトは、規則性や法則性と結びついて、第三性のコトとなる。通常の言語や論理などは、第三性のコトであるから、人間の思考などは第三性を中心としている。

重要なことは、取り上げられているコトが、一者についてのものか、二者についてのものか、あるいはそれらを包み込むような第三者を介しているかを、区別することである。

熊楠が挙げている以下の例を取り上げたい。

熊楠(心)、酒(物)を見て(力)、酒に美趣(名)あること人に聞きしことを思い出だし(心)、これを飲む(事・力)。ついに酒名(名)を得。

スクモムシ(心また物)、気候の変(事)により催され(力)、蝉に化し(心また物)、祖先代々の習慣(名)により、今まで芋を食いしを止めて(力)、液(物)を吮う(力)。ただし、代々(名)松の液をすいしが(事)、松なき場処に遭うて(力・物の変)、止むを得ず柏の液をすう(事の変にして名の変の起こり)。
明治36年8月8日付け土宜法竜宛て書簡)


一番目の文章は、細かな状況について、どうにでも解釈できるところもあるが、大事なことは、「熊楠 ⇔ 酒」が向き合って二者の関係(隣接関係)になっていることだろう。そこから、いろいろなコトが読み取れる。「熊楠が酒を見るコト」、「熊楠が酒を飲むコト」などは、熊楠の動作と考えれば、第一性であるが、熊楠と酒との相互関係と考えれば第二性となる。「熊楠が酒に向かいながら、美趣を思い出すコト」や、「熊楠が酒を飲んで、酒名を得るコト」は第三性だろう。

二番目の文章は、あるスクモムシ(コガネムシの幼虫らしい)の個体が、いろいろな特性を示すことであるが、それぞれの特性は第一性である。しかし、スクモムシがいろいろな環境に遭遇することは第二性だろう。また時間的変化(近接関係)として、幼虫から成虫へと変態することも第二性だろう。種の特性として固定されて、あらゆる個体がその特性に支配されているのならば第三性だろう。結局、あるスクモムシが、気候の変化、芋、松、柏などに出会いながら(隣接関係になりながら)、いろいろなコトをしていることが描写されている。

「名」と呼ばれるものは、このようないろいろなコトやコトの連鎖が起こり消えていく中で、固定されて残ったものらしい。最初に述べたように、「コト=記号」だとすれば、この「コトの連鎖=記号の連鎖」は、記号過程(semiosis)であり、無数の「コト=記号」の連なり(また意味の連なりでもある)によって、思考していることになる。また、「名」は、コトとコトの連なりを包みこむことであるから、第三性だろう。

さらに、いったん「名」として固定されたものは、独立に機能し、「心」に映して生じるものが「印」となる。このような「名」と「印」の“実在性”を、熊楠は「はなはなだしき大発明」と述べている。

ここで、改めて熊楠の曼荼羅を眺めてみると、3つの「力」が書かれている。1)「物」から「事」が生じるときに、金剛界で生じる「力」、2)因果関係からの「事」において、生じる「力」、3)「事」から「名」が生じたときに、「名」にはたらく「力」である。このそれぞれは、まさに第一性、第二性、第三性に対応している。熊楠は、「事」に作用するいろいろな「力」を指摘することによって、結果的に「事」を分類していることになる。
[2018/07/25 追記:ここでの3つの「力」の説明は、あまり確信がある訳ではない。何に対して働くのか、「事」を生じるときに働くのか、「事」に対して働くのか、熊楠自身も説明していない。「事」に3種類があり、それらが第一性から第三性に対応していると考えたのが、上の説明である]

  
熊楠が、「事」を分類することに、どれくらい自覚的であったかはわからない。それでも、少なくとも「事」にまつわるいろいろな側面を想定していたことは間違いない。熊楠曼荼羅を解釈するためには、少なくとも「事」にいろいろな側面があることを、理解するべきだろう。


[2018/07/25 追記]ここで「事は記号である」と述べたことは、2017年の熊楠研究会でも、パースを引用して説明した。2018年の論文でも、末尾に注として、概略を説明した。