パースの記号論による南方曼荼羅の読み解き

前回、熊楠とパースとの関連について書いたが、鶴見和子のような有名人なら、その関連性を指摘するだけでインパクトもあるのだろうが、私がこのブログで書いたところで、単なる思いつきを述べているように思われるだけだろうから、そのとっかかりだけでも示しておこう。

このブログでパースについて書いたことは、「パース ebikusu」で検索してもらえば、いろいろなことで言及していることがわかるだろう。これまで言葉やレトリックについて述べたことは、南方熊楠の比較の論理、すなわち世界各地の説話やいろいろな事項を比較し並べ立てることにつながってくる。


それで、熊楠であるが、「南方曼荼羅」や「事の学」ということで、いろいろな人がいろいろな解釈をしているが、ここでは以下の図を取り上げたい。




この中の「物−事−心」の三項が、パースの「対象−記号−解釈項」に対応しているというのが、私の解釈である。以前に、パースの三項図式を図示したことがあるが、物が対象(object)であるとして、事が記号(sign)であり、心の中で考えることが解釈内容や意味(interpretant)に対応している。interpretant はまた記号になるから、その記号の連鎖が、心のなかであれこれ考えていることの実質的内容となる。

つまり事の連鎖は、記号の連鎖ということになる。そこに、熊楠は「名」と「印」を付け加える。「名」はパースの記号分類でいうならば、名辞的・象徴記号・(法則記号)(Rhematic Symbol Legisign: 331)に対応するのではないか。「印」はそこから出てくる具体化されたイメージだとすれば、「名」と「印」は、タイプとトークン、あるいは法則記号とレプリカに対応するものと思える。もちろん、このあたりの用語に仏教的な影響や背景があるのだとしたら、さらに検討の余地はある。
(2018/07/25 注記:「印」は「心」に生じるだけで「物」ではないので、「物」として具体化される前に生じるもの(性質や意味など)、つまり「名」という「記号」に対する「解釈項」であると、今は考えている。また「名」については、パースのいう名辞的・象徴記号(Rhematic Symbol)だけでなく、命題的・象徴記号(Dicent Symbol)、論証(Argument)などの、すべての象徴記号(Symbol)を含むものと考えている)


因果と縁起について、熊楠は以下の図も掲げる。




これらの関係は、パースのいう第二性(第二次性 Secondness)に対応している。つまり、二者の出会いであり、互いに原因となり、それぞれに結果が生じている。通常の因果関係は、名辞的・指標的・法則記号(Rhematic Indexical Legisign: 321)である。単純な「縁」というものは、偶然の出会いであり、単一の隣接関係であると考えれば、名辞的・指標的・単一記号(Rhematic Indexical Sinsign: 221)に対応するものだろう。「縁」が「起」となるのは、九鬼周造の「運命」を思い浮かばせるが、時期的には熊楠が先取りしていることになるだろう。二者の出会い(縁)は、無数に生じているものだろうが、そこに必然性を見出すものは、さらなる二者の出会いである。熊楠の例では、「熊楠、那智山にのぼり小学教員にあう」ことが最初の隣接関係であり、「その人と話して…」、「明日尋ぬる」というのが、新たな隣接関係の連なりとなっている。

このような隣接関係は、必ずしも必然法則(因果法則)に当てはまるものではないことから、鶴見和子のいう「熊楠が偶然を強調した」ことにつながってくる。そして、パースもまた偶然を強調したのだが、パースの偶然論(tychism)は、さらに包括的な世界観(synechism)に基づくものだろう。これすらも、胎蔵界大日如来の論理に対応しているのだろうか…。


いずれにしても、パースの記号論に、熊楠の曼荼羅論は、見事に対応している。もちろん、わざわざパースの記号論などを適用しなくても、熊楠の文脈に従って読み解けばよいことだろう。しかし、多くの南方曼荼羅の解釈は、熊楠の思想の深遠さを強調するあまり、妙に神秘的で深読みし過ぎのものになっているように思える。


知りたいことは、熊楠とパースの類似性がどこから生じたかである。熊楠の「縁起」などという発想は、日本人ならば、非常に納得しやすい論理だと思える。むしろ、パースが西洋人でありながら、偶然を強調したことの背景が、注目されるべきなのかも知れない。もしも、両者の“共通の祖先”のような思想家が特定できるのならば、とっかかりが見えてくるかも知れない。
  

[2018/07/25 追記]南方熊楠の研究者が、この辺りの文章を読まれれば、誰が書いた文章であるかは想像がつくものと思う。このブログは匿名で書いてはいるが、特に秘密にしていた訳ではない。このブログの管理人が、2017年夏の熊楠研究会で発表したこと、2018年の『熊楠研究』12号の論文で書いたことと、大きく重なっている。2018年の論文を読むときに、エッセンスが書かれたものとして読んでもらっても構わないと思う。根本の発想は、この時期には既に思い浮かんでいたのだが、それを発表する手段や手順が思い浮かばなかった。この3年くらいの間に、多少なりとも考えが違っている部分もあり、それらは注釈を付けるなどした。