シネクドキ(提喩)とメタファー(隠喩)の区別

メタファー分類へのパースの三項図式の適用」で、シネクドキがメタファーとしばしば混同されることについて触れた。そのときに、シネクドキは、実はメタファーの片割れではないかといったことを示唆した。そのことの意味を考えてみたい。

ちょうど、森雄一(2011)「隠喩と提喩の境界事例について(PDF)」という論文がネットで見つかったので、その論文の実例を借りながら論じてみたい。そこで取り上げられている実例は、私がこれまでシネクドキとは考えて来なかったものだが、メタファーとシネクドキの区別を考えるために、利用させてもらう。

少し驚いたことは、「舵を取る」という表現が、メタファーであるかシネクドキであるか議論となっていることである。シネクドキと解釈をするのは、「『舵を操作して船を進める』と『物事をうまく進める』の間には、上位カテゴリー―下位カテゴリーの関係が成立している」ということらしい。

私のメタファーの分類からすれば、『舵を操作して船を進める』は、一連の動作として近接関係やメトニミーに関わるものであり、『物事をうまく進める』も一連の動作だと考えれば、動作の対応ということで、Metaphor2 に対応するものと思える。

これをパースの三項図式で示せば、以下のようになるだろう。

「舵を取る」という表現は、実際に舵を取って船を操作するのならば、字義通りの意味となって、インデックスやメトニミーと結びつくものだろう。そして、このような動作自体を、何かに喩えるのならば、メタファーと解釈されるのではないか。似たような言葉で、今時のナビゲーションという言葉などは、まさにメタファーそのものだろう。

ところが、舵を取って船の方向を定めるという現実の動作に対して、抽象的な意味が加わるのは、パースの言うインデックスがシンボルとして解釈されるからだろう。つまり、パースの十の記号クラスからすると、名辞的指標的単一記号(221)から、名辞的指標的法則記号(321)を経て、名辞的象徴記号(331)となることである。名辞的象徴記号となれば、解釈内容が加わって、真正の三項関係になる。いったん三項関係になってしまえば、解釈内容からの記号連鎖によって、概念間の階層関係に結びつくことになる。

結局、森氏が述べているような「別の認知領域間の転移なのか、包含するカテゴリー間の転移なのか」という区別点は、パースの三項関係で、異なる三角形(つまり飛び離れた記号)を結びつけるような喩えか、一つの三角形(つまり一つの記号からの展開)で理解されるような喩えかの区別ということになる。

ところで、この著者は、「足を洗う」はメタファーであり、「煮え湯を飲ませる」はシネクドキとみなしている。これらをパースの三項関係で示すと以下のようになるだろうか。




どちらの例も、字義通りの意味はなくて(つまり、実際に足を洗うわけでもないし、煮え湯があるわけでもない)、象徴的な(慣用的な)意味が解釈内容として現れている。両者に違いがあるとすれば、メタファーの方が、対比される動作αが明瞭に表現に現れているのに対して、シネクドキの方は、αが被喩辞として表面に出ていないことだろうか。そのために、「煮え湯を飲ませる」と「ひどい目に遭わせる」とが並べられた時に、下位概念と上位概念の関係と見えるのだろう。


このような微妙な区別の例は、こちらのブログでも取り上げられている。このブログの記事は、レトリックのことを勉強し始めたときに、このような微妙な区別はとても理解出来ないと思ったものだった。そこで挙げられている例は、

「足を洗う、足を引っ張る、骨を折る、実を結ぶ、宙に浮く、虫の息、風前の灯火」は隠喩、
「危ない橋を渡る、石橋を叩いて渡る、足元から火が付く、氷山の一角、渡りに船、寝耳に水」などの句は提喩

などである。「氷山の一角」は森氏の論文でも取り上げられているので、これをパースの三角形で示してみよう。

もし目の前に氷山があって、氷山全体に対してその一角を指し示すのならば、「全体に対する部分」のメトニミーや、隣接関係を示すインデックスだろう。ところが、実際に「氷山の一角」が用いられるのは、「表面に現れたごく一部分」という意味だろうから、インデックスからシンボルとして解釈されていることになる。そして、「表面に現れたごく一部分」の下位概念として「氷山の一角」を見なすならば、シネクドキということになる。一方、「氷山の一角」というインデックスで「何らかのものの部分を」喩えていると見なすならば、ダイアグラムによるメタファーということになる。

結局、喩えられる動作や対象(被喩辞)が見え易いときにはメタファーと見なされ、見え難いときにはシネクドキと見なされているように思える。

しかし、あらゆるシンボルは解釈内容を含み、解釈内容は、パースの定義からしても、記号と対象との関係を包括するような意味を持つから、記号に対して上位概念となるのも当然だと思える。つまり、記号がシンボルならば、上位概念にたどり着いて、シネクドキを導き出せるということのように思える。例えば、「足を洗う」が「きれいになること」へ行き着くように。

さらに、上で取り上げた例のすべては、偶然なのか意図的なのか、見事に元の意味が具体的な動作や関係を示している。また、森氏の取り上げる「ことわざ」や「固有名」についても、個別事例からの一般化ということでは同様である。つまり、個別事例としてのインデックスに、象徴的・慣用的意味が解釈内容として読み取られることで、シンボルに転化している。だから、個別事例が上位概念に含まれるという意味ではシネクドキと解釈されるし、個別事例によって別のなにかを対比するという意味ではメタファーに解釈されることになる。


ところで、通常のシネクドキと呼ばれているものは、花見の「花 → 桜」、人生における「パン → 食物」などのように、物における類と種の関係であった。パースの三角形では、記号と対象との間で、類と種の包含関係になっているものと思える。一方、上で取り上げた例のすべては、記号と解釈内容との間で包含関係になっている。両者ともに、包含関係を規定するものは、おそらく文脈のようなものなのだろう。しかし、両者がどのように違っているのか、また同じシネクドキに含めるべきなのかどうかは、今のところ私はよくわからない。むしろここでは、シンボルを解釈するときに、包含関係が頻出するものであることを指摘するにとどめたい。


前回書いた「メタファーの二重提喩論」にしろ、今回の「シネクドキとメタファーの区別」にしろ、どのようなメタファーが該当するのかを見極めることが必要である。すべてのメタファーが、二重提喩で理解されるわけでもないし、シネクドキとの区別がつきにくいわけでもない。

年の初めに「メタファーの分類(改訂版)」を提示して、その後「メタファー分類へのパースの三項図式の適用」を考え始めて、これまで一連のこととして考えて来た。まだまだ未解決の部分もあるが、かなり見通しがついたところもある。これからも、少しずつでも理解を深めて行きたい。