「ぼくはウナギだ」(ウナギ文)は、シネクドキだ 1
パースの記号論で、命題のことを勉強していて、copula について学ぼうと思って、日本語での議論を検索していたら、「ウナギ文」に関する議論があることを知った。それで、ネットで読むことが出来る関連論文をいくつか読んだ。この文章では、「ぼくはウナギだ」という文章が、“ウナギ文”として想定されている場面では、シネクドキであることを論じてみたい。
まず最初に指摘しておきたいことは、ウェイトレスが注文を尋ねる場面での「ぼくはウナギだ」という応答と、ウェイトレスが注文品を運んで来た場面での「ぼくはウナギだ」の応答とでは、ウナギの意味が違うことである。前者の場面では、メニューの中のウナギ料理であり、後者の場合は実物としてのウナギ料理である。だから、後者は「ぼく」と「そのウナギ料理」は、個物と個物の隣接関係になっているが、前者はメニュー品目として「ひとつのウナギ料理」を挙げただけである。パース流の説明では、後者は真正のインデックスであるが、前者は個物とシンボルから生じたレプリカとの関係であり、a peculiar kind のインデックスとなるだろう。あるいは、英語の語感に自信はないが、前者なら an eel, 後者なら the eel となるだろうか。
この話をさらに強調すれば、店を入った直後に、ウナギを食べている人を指さして、「ぼくはあのウナギだ」と注文したとしても、「ぼく」と「注文したウナギ」は隣接関係にならないだろう。つまり、「あのウナギ」と指さしたウナギとは隣接関係であるが、「注文したウナギ」は「あのウナギ」と同類のものの一つなのである。このように食堂で注文をする時点では、カテゴリーとしてのメニュー品目と、個物としての料理(ぼくのものとして確定したもの)とが、交錯しているようだ。*1
このようなことは、過去にウナギ文として論じられて来た多数の論文のどこかで触れられているのかも知れない。しかし、ウナギ文をメトニミーとの関連で論じた論文をいくつか見つけたが、「ウナギ文 シネクドキ(提喩)」で検索しても、あまりヒットしない。しかも、ウナギ文が想定している注文の場面での「ぼくはウナギだ」はメトニミーだとはとても思えない。そんなことをパースの三角形を使いながら、論じてみたい。
もちろん、「ぼくはウナギだ」という発言は、場面によって、字義通りにも、メタファーにも、メトニミーにも、そしてシネクドキにもなるのだろう。
メタファーならば、以下の図のようになるだろうか。「ぼくはドジョウだ」と言った某首相もいたようだが、同様の説明になるだろう。こういう特性の類似性によるMetaphor1は、思想や理念などが伴わないと、言いっ放しで軽いものになるのだろう。
メトニミーの場合ならば、特定のウナギとぼくとが隣接関係になることである。ウェイトレスがうな丼とかつ丼を持ってきたときの「そのウナギ(丼ぶり)」と、そのウナギを注文した者としての「ぼく」が、同じ場面に居合わせるということだろう。
シネクドキの場合は、少しややこしい。パース流の説明で、「ぼくはウナギだ」ということを命題としてとらえるとしたら、以下のようになるだろうか
パースの説明を誤解しているかも知れないが、重要なことは、ここで述べられているウナギがシンボルであり個物ではないことである。だから、ぼくとウナギが隣接関係になるためには、シンボルとしてのウナギのレプリカが必要となる。一方、解釈内容(項)は、そのような関係性を示すとともに、ウナギの性質をも示す。そのような性質に従ってレプリカが生じてくる。さらに、このような解釈内容は、記号の連鎖として概念の連なりを示すことになる。
ところで、概念の連なりのうち、かなりの部分が階層関係ではないだろうか。ウナギ料理の上位概念として、その食堂のメニューを考えられるだろうし、下位概念なら、うな丼やうな重などの品目などが考えられるだろう。そして、どのような階層関係になるのかは、文脈で決まってくるのだろう。
結局、シンボル(=普通名詞)を操ることは、概念の階層関係を行ったり来たりすることであり、クラスとメンバーの関係からレプリカを操ることである。“ウナギ文”でいう「ぼくはウナギだ」という表現は、(メニュー項目)⊃(ウナギ料理)⊃(一つの料理)として、二重の包含関係を含んでいる。この文脈での「ウナギ」は、シネクドキではあっても、メトニミーではあり得ない。
シネクドキはシンボルにあまりにも密着しすぎていて、そしてあまりにも当り前すぎて、見えにくくなっているのではないか。例えば、この本文のタイトルの「ウナギ文はシネクドキだ」は、シネクドキのつもりなのだが、理解できるだろうか? *2
*1:このような食事を注文したり受け取ったりする場面での隣接性にこだわって書いたのが、「「初発のアイコンはインデックスでもある」の感想 - ebikusuの博物誌」である。その当時は、パースの思想のつまみ食い状態で、「インデックス−隣接性」の一本槍で論じたのが、恥ずかしくも懐かしい。