「ぼくはウナギだ」(ウナギ文)は、シネクドキだ 2

前回触れたように、ウナギ文について考える過程で、ネットで読むことが出来る論文をいくつか読んだ。それについて、触れてみたい。

まず最初に見つけたのが、山本幸一(2006)『「ウナギ文」の分析 − 連結メトニミーとして』という文章だった。「ウナギ文 メトニミー」で検索すると、この論文は先頭に近いところに出てくる。この著者のメトニミーに関する文章は、以前にこのブログでも取り上げたことがある。また「象は鼻が長い」を論じたときにも、取り上げようと思ったりもしたのだが、そこで論じられていることが理解できず、途中で投げ出したことがあった。

以前に読んだときにも感じたことであるが、この著者は、メトニミーとシネクドキを区別しないようである。メトニミーを専門に研究していて、その区別を知らない訳はないだろうから、あえて区別しない立場なのかも知れない。しかし、そのために、議論が非常に奇妙なものになっている。

例えば、著者は以下のような説明を挙げている。

ぼくはうなぎだ。  「ぼく<注文料理>うなぎ」
娘は男の子だ。   「娘<生まれた赤ん坊>男の子」
彼女はフランス語だ。「彼女<選択した外国語>フランス語」

<>で囲まれた「意味的連結部分」を介して主語と述部が「近接関係」なっていると主張しているらしい。しかし、私には、その部分と述部が、シネクドキでいう包含関係になっているように思える。ただし、注文料理の品目・赤ん坊の性別・選択可能な外国語などは、“集合”や“クラス”などとは多少違っているので、これについては項を改めて論じたい。いずれにしても、「連結部分」と述部は、意味的な包含関係はあっても、同一の空間や時間的経過を共有するような隣接関係や近接関係にはなっていない。

この著者の不思議なところは、主要なテーマとして、「特徴づけメトニミー」と「連結メトニミー」の区別を述べているのだが、その説明のときには、「全体−部分」などのごく普通のメトニミーの例を挙げているのに、ウナギ文の説明のときだけ、「主語」と「関連概念」とをむりやり結びつけていることである。素直に考えれば、「関連概念」が結びついているのは「述部」の方であり、“概念”を持ちだした時点で、メトニミーの議論に、シネクドキのことを混入しているように思える。、

「特徴づけメトニミー」と「連結メトニミー」の区別自体、部分を先に述べるか、全体を先に述べるかで、後続の文章がどのように受けるかが違ってくるということらしいが、そのような細かい区別よりは、隣接関係と概念の包含関係とを区別することのほうが、どれだけ大切なことかと思えてくる。

この著者は、なぜシネクドキを区別しないのだろうか?


(2012/02/11 追記):
またまた見事に誤解していたようだ。改めてネットの画面で眺めていると、「ぼくは<注文料理>がうなぎだ」、「娘は<生まれた赤ん坊>が男の子だ」、「彼女は<選択した外国語>がフランス語だ」としてみると、以前に「象は鼻が長い」でも考察したように、主語と< >の部分は、隣接関係になるようだ。

ただし、文章全体の性格は、後ろの述語で決められるだろうから、「ぼくの<注文料理>はうなぎだ」、「娘の<生まれた赤ん坊>は男の子だ」、「彼女の<選択した外国語>はフランス語だ」だと解せば、この次の日に引用した今田の論文の類型では、役割−値関係の文章となるだろう。

しかし、文章全体が隣接関係の文章になるためには、「ぼくの<注文料理>はそのうなぎだ」、「娘の<生まれた赤ん坊>はその男の子だ」、「彼女の<選択した外国語>はこのフランス語(の授業)だ」などとしなければならない。

つまり、述語が類やシンボルのときには、隣接関係になれない。「ぼくがウナギだ」のウナギが類である限りは、隣接関係は読み取れない。