「象は鼻が長い」とメトニミー3

前回の謝豊地の論文を読んだ後に、思い出したのは、山梨正明(2001)*1の論文だった。この論文は、たまたま身近で手に入ったので、レトリックの学習を始めた昨年の今頃に読んだものだった。そこでは、認知主体(conceptulizer)、参照点(reference point)、ターゲット(target)、ドミニオンなどの参照点構造の解説を通して、「は」の機能についてあざやかに説明されていたのが印象に残っていた。

「象は鼻がながい」(全体と部分)や「花は桜が一番だ」(集合とメンバー)も、例文として取り上げられており、以下のような図が掲げられている。



この図では、参照点が次々とずれて、ドミニオンが段々と狭まっていって、ズームインの認知プロセスになっているのだという。たしかに、視点の移動で見る限り、全体と部分にしても、集合とメンバーにしても、まず大きな範囲を「は」で提示して、段々と狭い範囲のことを述べることになるのだろう。この点では、このブログで強調してきたメトニミーとシネクドキの区別は、考慮されていないことになる。

ところで、同論文でズームインの例として挙げられている以下の3つの例文は興味深い。

1)明石は魚がうまい
2)明石は魚は鯛がうまい
3)明石は魚は鯛は金目鯛がうまい

「明石は魚がうまい」での明石と魚の関係は、明石という固有名詞が関与することで、メトニミーがいう特定の隣接関係だろう。一方、「魚は鯛がうまい」ならば、集合とメンバーの関係そのものだろう。つまり、ズームインという認知プロセスでは、より大きな範囲から小さい範囲へと視点をずらしていくことだけで、対象が集合であるか特定のものであるかは問われずにごちゃまぜに扱っているということになる。

この点では、シネクドキをメトニミーから分離することに反対する人たちが、シネクドキもメトニミーも、対象間で視点をずらせた言い換えだとして、共通性を主張する根拠になるかも知れない。しかし、そこでは対象の存在としての意味が問われていない。

上の文を少し入れ替えると、「魚は明石がうまい」とは言える(もちろん意味は違ってくる)が、「鯛は魚がうまい」とは言えない。なぜなのだろうか? このことの意味を考えて行きたい。

*1:山梨正明. 2001. 空間認知と視線のダイナミックス−−認知言語学パースペクティブ. 人環フォーラム, 10: 30-35.