「象は鼻が長い」とメトニミー4

前回の記事では、「XはYがZである」において、XからYへと対象の範囲が狭まって行くことを、入れ子状の図式で見た。実は、先に引用した山梨の論文では、入れ子状の図式の前に、以下のような図が掲げられている。



こちらの場合は、参照点やターゲットが次々にずれていきながら、ドミニオンを推移していくのだという。例えば、「あの学者は本が多い」や「田中さんは娘さんが美しい」や、また少し適切性は落ちるが「鈴木さんは息子は三男がとてもすなおだ」などの例文が当てはまるらしい。

このシリーズの記事の2回目にも述べたが、このような主体「Xは」が明示されて、それに関係するものが「Yが」の位置にくるのは、メトニミーでいう隣接関係だろう。Yが親族だろうと属性だろうと所有物であろうと、主体Xとそのような関係を持っていることが、隣接関係の意味するところだろう。

このような隣接関係と、前回述べた集合とメンバーの包含関係は、存在論的に違うというのが、このブログで長々と論じているところである。


ここで、前回の最後に述べた、「魚は明石がうまい」とは言えるのに、「鯛は魚がうまい」とは言えないことの意味を考えたい。

「Xは」で提示されたときに、その次にくる[Yが」には、Xとなんらかの関係のあるものや包摂されるものを、想定するものと思われる。それで、XからYへと範囲が狭まっていけば素直に解釈できるが、魚という類(集合)と鯛という種(メンバー)では、その関係を逆転できないのだろう。もちろん、「明石は魚がうまい」と「魚は明石がうまい」では、“魚”の意味が違っていて、明石で採れる魚、魚の産地としての明石などと、読み替えをしているのだろう。

他の隣接関係についても、「本はあの学者が多い」、「娘さんは田中さんが美しい」、「鼻は象が長い」などと言い換えることが可能であるが、「Xは」で提示されたいるものに、Yがどのように関連するかを読み取るためには、なんらかの文脈が必要となるだろう。

また、「花は桜が一番だ」を「桜は花が一番だ」と言い換えることが可能だと思えるかもしれない。しかし、前者は「花の一種としての桜」であり、後者は「桜の部分としての花」だろう。花と桜の意味も、関係も、根本的に違っている。