認識の三角形とパースの記号論

以前に、「シネクドキ(提喩)の位置づけ」で、瀬戸賢一の“認識の三角形”を示した。また、「認識の三角形に立ち戻って」では、同氏の「認識のレトリック」を読んだ感想として、メトニミーとシネクドキに対応するかたちで、メタファーaやメタファーbなどが分けられるのではないかと触れた。さらに、「アイコン・インデックス・シンボルとレトリックとの対応」では、京都産業大学卒業論文から、「アイコン−メタファー」、「インデックス−メトニミー」、「シンボル−シネクドキ」の対応を紹介した。


ところで、瀬戸賢一の「認識のレトリック」を読み返していると、認識の三角形とパースの記号の三分法の対応ということで、3つの三角形が示されていた(p205)。その意味するところをまとめたのが、以下の図である。上に紹介した京都産業大学の卒論と同じ対応関係となっている。




このような対応を考えることは、その背景となっている関係性からして、理解出来ないことではない。しかし単純な対応を考えることは、少しナイーブ過ぎないだろうか。アイコン、インデックス、シンボルは、それぞれ第一次性から第三次性に対応する。そうすると、メタファーが一次ということになる。これは少し変ではないか? メタファーの中には、シネクドキに基づくものやメトニミーに基づくものがあることは、上述のように以前に触れた。そうすると、メタファーにはいろいろなものが含まれているのだとすれば、以下の図式の方が、より対応を反映しているのではないか。



この図式をニラんでいると、いろいろなことが思いつく。例えば、いろいろなメタファーがあるということは、瀬戸賢一がいろいろな本で述べているところだから、どのようなメタファーが対応するかである。厳密な対応を吟味したわけではないが、直感的には、メタファーabcについて、それぞれ瀬戸のいう感覚のメタファー、方向のメタファー、悟性のメタファーが対応するのではないか。ついでに、昨年考えた「左と右」のことは、体の左右性というメトニミーから派生したメタファーbということになる。

このあたりのことを、パースの思想を理解することから、深めて行きたい。


(2011/10/22 追記):
上の図式で、シネクドキ・メトニミー・メタファーを行として横に並べたが、シネクドキやメトニミーが対象を別の言葉で言い換えることだとするならば、メタファーの位置にくるものは、そのような言い換えに相当するものだろう。例えば、雪をその性質から「白いもの」と言い換えるような。実は、この「白いもの」は類とみなされて、このような言い換えはシネクドキとみなされるのだろうが、「白い」ということ自体は、単なる性質である。もちろん、性質を表す単語自体が、類やシンボルでもあるので、どのような言い換えをしているかを読み取るのは単純ではないかも知れないが。