アイコン・インデックス・シンボルとレトリックとの対応

かなり以前に「♂♀の記号の意味」という文章を書いたときに、パースによる記号の分類として「アイコン・インデックス・シンボル」について触れたことがある。

そのときは、富山商船高専言語学者である金川欣二さんの『フェイスマークの図像学 (^_^;』の引き写しで、♂の記号が、アイコンではなく、シンボルだという話だった。そのときには、パースという学者が、どういう人なのかもほとんど意識していなかった。


その後、レトリックのことをあれこれ考え始めたときに、メタファー・メトニミー・シネクドキが、上のアイコン・インデックス・シンボルと、どう対応するのか、ずっと気になっていた。それというのも、メトニミーでいう隣接性(contiguity )や近接性(proximity)は、インデックスでも取り上げられるからである。

ちょうど、レトリックのことを学び始めたときに、ネットに書かれていることを拾い出していたら、京都産業大学卒業論文(2007年)で、「パース記号論の応用による修辞学の基礎付け」というものが公開されていた。当時は、この分野のことをよく知らなかったので、学部卒業程度なのによく勉強しているなと感心したものだったが、さすがに今改めて読んでみると、アラも目立つ。しかし、いずれにしても、パースの理解を、修辞学に結びつけようとする熱意が伝わって来て、よく出来た卒論だろうと思う。

その卒論では、「アイコン−メタファー」、「インデックス−メトニミー」、「シンボル−シネクドキ」の対応が示されている。それを読んだ当時から、インデックスとメトニミーの対応は納得するにしても、その他の対応については、フーンそんなものかとの印象だった。


こんな話は、誰かが考えていそうなことで、どこかですっきりと説明してくれているのではないかと期待して、ネットで検索をしたりしたものだが、どうもすっきりとした説明には出会えず、ずっと気になっていた。

おそらくは、単純な対応を考えること自体が、間違っているのだろう。パースのいう「アイコン、インデックス、シンボル」は、対象と記号との関係を示す区分であり、レトリックの方は、言葉と言葉の言い換えについての区分なのだろう。それでも、対象と記号と言葉が、どのような関係にあるのかは、知りたいところである。ところが、パースの記号論は、あまりにも手強すぎて、とても全体像を理解するところまで行かない。そんなわけで、「アイコン、インデックス、シンボル」については、触れないままで来た。


たまたま俳句のことで「現在思想のために」というブログを読んでいると、「初発のアイコンはインデックスでもある」という記事に出会った。それで、その関連の記事などを読みながらいろいろ考えたことが、この文章を書くきっかけとなったのだが、そのことに立ち入る前に、もう少し“前書き”を書いておきたい。



実は、「現在思想のために」というブログの著者である菅野盾樹氏のことは、レトリックのことを学び始めた頃から、ずっと気になっていた。日本でレトリックのことを論じる多くの人が、佐藤信夫以来、シネクドキをメトニミーから区別すること、さらにシネクドキを「類と種の関係」に基づくものとすることを踏襲しているのに、菅野さんを含めたごく一部の人が、そのことに反対しているとのことだった。一方で、世界の潮流はシネクドキとメトニミーを区別することにあまりこだわることはなく、日本だけにこの区別が広がっているらしい。

私自身は、シネクドキとメトニミーを区別することに納得しているので、そのことに反対している人の論拠には気になっていた。以前に、「シネクドキとメトニミーの区別について:ネット上の論文から2」で触れた内山和也氏の「転義法における隣接性と事実の上の関係」でも、菅野さんの議論の引き写しのようにして、シネクドキを区分することの無効さを論じているようだったが、あまり説得的なように思えなかった。菅野さんがそのことを論じた文章を直接読んでみたいとは思ったが、手近には手に入らなかったので、これまで触れずに来た。「これまでの仕事」というサイトで、菅野さんのいろいろな文章が公開されていて、「原初の比喩としての換喩」の英語版が公開されているが、あまりにも直訳調の英語なので、読み解くことは諦めた。


そんなこともあって、次項で、アイコンとインデックスの区別と、シネクドキとメトニミーの区別とを絡めて、隣接関係について論じて行きたい。