俳句における主観と客観

前回、朝日新聞の「俳句 師を選ぶ」のことを触れたときに、少し前に「俳句とレトリック(付け足し)」で触れた「現在思想のために」というブログで、「俳句の世界制作法 ノート」の一連の文章を精読していた。

新聞の記事で、現在俳句のいろいろな流派のことが紹介される中で、感情的なことや主観的なことが過剰に盛り込まれた俳句をあまり好意的に見なかったのは、このブログの主張に影響されていたのかも知れない。


例えば、そのブログの一連の文章の最終回は「主観主義と客観主義の彼方へ――俳句の形而上学」ということで、〈写生〉を「〈主観〉、〈客観〉などの古めかしい概念とは異次元」の記号系として捉え、記号系が記号系としてかかわる〈再帰的動き〉(recursive move)として捉えられている。(素材としての)記号系を(作品としての)記号系として再制作する(remake)プロセスであるとすれば、そこには主観や客観などの古めかしい区分が入る余地はないということらしい。

このような発想は、先に私が述べた、俳句の素材を隣接関係でとらえようとする発想とも一致する。もちろん、レトリックを論じる人たちの発想に刺激をされて、私なりの発想を展開したのだから、同じようなことを考えているのは当然のことだろう。*1

ただし、上のブログの著者が記号系の〈再帰的動き〉として、記号系の独立性を主張されているのに対して、私の発想は、もう少し〈主観〉の作用を認めているようだ。にわか仕込みの俳句の用語を使うならば、「取り合わせ」で素材を選ぶにしても、「一物仕立て」で対象を記載するとしても、そこに詠み手の〈主観〉が入り込むことはまぬがれないように思う。同時に、純粋な〈客観〉というものもあり得ないだろうから、〈主観〉と〈客観〉のどちらかだけを強調してみてもつまらないだろうという立場である。

俳句の〈写生〉がなにを目指しているのか詳しい議論は知らないのだが、生物の〈写生〉=スケッチとを対比して考えるときに、見えてくるものがあるように思う。生物で何かを写生するとき、魚でも花でも、ありのままに描くとしても、それなりの注目点があるものだろう。ウロコの数を数えたり、体の長さや部分の比率を計測したり、なにが重要であるか、スケッチをやる中で学んでいくものだろう。同時に、クローズアップをしてみたり、全体を眺めてみたり、視点をずらしながら観察する。そんなことが、“生物学的”な視点を学ぶということだろう。だから、なんらかの視点や前提に基づかない客観的観察などはあり得ない。同様に、ある部分の特徴を記述するとき(これがまさに俳句でいう一物仕立てだろう)、なめらかだとか、丸いとか、尖っているとか、それなりの用語が必要となる。これが、それぞれの学問で使われる“記号系”というものだろう。しかも、そういった学問が客観的だとのナイーブな信念に凝り固まっているのでない限りは、なんらかの偏った視点でものを見ているということだろう。

一方、俳句の場合には、素材を選ぶときにも、素材を記述するときにも、オリジナリティが強調される。そこで、世界の新しい切り取り方や、記述の仕方が提唱される。それこそが詠み手の〈主観〉ではないか。このところで、上のブログの著者は、詠み手や一人称的主体を越えた記号系の〈再帰的動き〉が独立に作用するかのように主張する。記号系が、グッドマン流の「世界制作のバージョン」という主張なのかも知れないが、記号系自体は、俳句の歴史や流派によって蓄積されて来た世界観=主観の集合体と見なすべきもののように思える。

そのブログで、虚子の「客観写生」の所産とされた作品として以下のような句が挙げられている。

 大寺を包みてわめく木の芽かな
 手にとればぶてうほふなる海鼠かな

日本人の多くの人が、木の芽や海鼠に対して、それなりの感覚や経験を持っているに違いない。だから、それを「わめく」とか「ぶてうほふ」といういかにも“主観的”な言葉で記述したとしても、共感が得られるのだろう。しかし、大寺を包む風景の中に木の芽を見出したのも、海鼠を手にとって観察したのも、詠み手である虚子の個人的な体験である。写生というのは、詠み手がその場に立会って経験したことを表現するものだろう。そのような個人的な体験がなくて、「木の芽がわめいている」とか「海鼠はぶてうほふなり」と一般的に述べてみてもつまらないことだろう。そんな極めて個人的で〈主観〉的な体験や記述でありながら、他人から共感を得られるのは、季語が背負っている“記号系”としての作用のおかげだろう。


「俳句の世界制作法 ノート」という一連の記事は、非常に広範な議論がなされていて、ずいぶん学ぶところが多かった。しかし、私の考えていることと、ちょっと違うなと思ったことは、「取り合わせ」などで素材を並べることの捉え方である。つまり、隣接関係の捉え方である。このことについては、また別項で触れたい。

*1:私が、隣接関係のことを延々と考え続けていることは、「「象は鼻が長い」とメトニミー」の一連の文章など、いろいろ論じてきた。これも認知言語学などでレトリックを考える議論に影響されている。