「初発のアイコンはインデックスでもある」の感想

「現在思想のために」というブログでは、菅野氏自身、同じような問題を繰り返し述べられているのだろうとは思うが、ここでは、「初発のアイコンはインデックスでもある」という記事を読んでいろいろ考えたことを、まずは論じたい。

この記事で、菅野さんは、ふたつの事例を取り上げておられる。つまり、イタリアンレストランでプラスチック容器を「トークン」として渡されたこと、そして幼児が公園で鳩の群れに出会ったときのこと、それぞれについて、記号的な意味を分析されている。

どちらの事例も、個別の対象に対して、トークンや型代を記号として考えるならば、インデックスとなるが、同時に、タイプやカテゴリー化をともなっている場合には、アイコンとなって、結局、「初発のアイコンはインデックスでもある」ということになるらしい。

ここでの私の結論は、同じ記号がアイコンにもインデックスにもなったりすること、そのことは、対象をどう見るかに関わっている、というものである。

レストランで、調理人が実際にやったことの詳細は、ちょっとわかりにくい。しかし、状況から想像するに、順番に調理している料理に対応した食器を渡すことで、順番なりメニューなりの料理の個別性がわかるようにしたのだろう。もし同じ品目の料理が続いたとしても、食器を替えることで、順番通りに注文した人に手渡せるようにしたはずである。だから、この食器は、別の日にはまた別の品目の料理を指示するかも知れなくて、結局状況に依存しているのだから、素直に考えれば、インデックス以外のなにものでもないだろう。しかし、無理をすれば、食器を、料理の品目を示すアイコンとして使えないことはない。例えば、料理の色に合わせて、その似た色の食器を出せばよいだろう。

一方、鳩の群れで、ポッポという音(型代)が、鳩というカテゴリーに結び付けられるのだとすれば、アイコンということだろう。つまり、ポッポは鳩というカテゴリー特徴付けるものであり、ポッポを共有するものとしてアイコンが作られていくのだろう。

ところが、ポッポはインデックスにもなり得る。目の前でエサをついばんでいる特定の個体が、ポッポと鳴いて、他の鳥がクークーと鳴いたとしたら、そのことがトークンとなるかも知れない。この場合には、ポッポはその個体が発したものとして“隣接関係”にあるのだろう。

ここで挙げられた二つの例は、レストランの例が没カテゴリー的で、インデックスとしてしか解釈されにくいのに、鳩の例が、容易にカテゴリーに結びつくことで、アイコンにもインデックスにもなりうるという点で、対比的なものとして挙げられているようだ。


ここで確認するべきは、同じ記号が、アイコンになったりインデックスになったりすることだろう。しかし、だからといって、アイコンとインデックスが、移行的であったり推移的であるとは言えないだろう。*1

アイコンは対象との類似性がありさえすれば、対象との具体的な関係はどうでもいいことである。一方、インデックスは、具体的な“隣接関係”が必要である。つまり、私が注文した料理、私が出会った鳩を指し示すものがインデックスである。だから、インデックスは一期一会の関係に基づくものであり、常に“初発”の意味を帯びていることになるだろう。


さらに確認するべきは、同じ対象でありながら、特定のもの(個物)であったり、類的存在(クラス)であったりすることである。私が出会った特定の鳩は、また鳩というカテゴリーにまとめられる。しかし、両者の存在論的意味はまったく異なるものだろう。アイコンは類似性を共有した類的存在を示すだろうし、インデックスは特定の鳩を示す*2


このような話は、哲学者である菅野さんには、釈迦に説法だろう。ところが、以上のことと、シネクドキとメトニミーの区別を認められないこととは、どのように整合的になるのだろうか。

アイコンがカテゴリー化と結びついていることでは、類と種の関係に基づくシネクドキとの関連性が思い浮かぶ。もちろん、インデックスにおける特定の関係性は、隣接関係に基づくメトニミーが思い浮かぶ。

先に俳句に関する菅野さんの一連の文章は、俳句のメトニミー性やシネクドキ性をどのように処理されているのか、大いに期待しながら読んだ。季語のことについて、ほとんど言及がなかったのも、シネクドキをメトニミーと同一視してしまうために、見えてこないのではないかと思えた。


(2011/06/29 追記):当初、表題に掲げたブログの文章をネタにして、アイコンとインデックスの違いを論じてみたいと思った。しかし、パースの記号論の理解の不十分さを痛感することになった。それに、後で読み返して、表題のブログの文章の理解の不十分さも痛感した。あまり不確かなことは書かないようにしたり、論旨を明瞭にしたりするために、かなり大幅に書き換えた。他の文章同様に、自分なりの思いつきを整理していく過程のものですので、学習の足りないところは、笑って読んでやってください。


(2011/07/01 追記):
文章を推敲したり、菅野さんのブログの文章を読み返したりしていると、どうも二人共ほとんど同じことを言っているような気になってきた。最初は、アイコンとインデックスが推移的であるかのように主張されていると誤解したのだが、そうでもなかった。また個別者でありながら一般的な型(タイプ)であることにも触れられている。そうだとすれば、上の文章は、元の文章を勝手に誤解したうえで、私なりの注釈を書いたことになる。

疑問点が残るとすれば、世界について何の知識も持たない段階で、アイコンが先か、インデックスが先かということだろう。同じブログの「心の習慣が世界に安定性(stability)をもたらす」では、<類似による連合>(association by resemblance)が、生来の性向(ないし素因disposition)であり、<近接による連合>は、第一の連合によって得られた観念の合成にほかならない。とパースのことを引用されている。この通りならば、アイコンが先ということになる。このことは、シネクドキとメトニミーがどちらが根源的な比喩なのかにも通じる。

*1:実は、この点について、「初発のアイコンはインデックスでもある」という題名で、初発と限定されていることの意味をよく理解していなかった。“初発”という意味に関連するように、他の部分も書き換えた。

*2:もちろん、帰納による一般化で、インデックスが法則性のようなものを示すこともあるだろうが。