写真と俳句

少し前に、コメント欄で、まつべぇ〜さんから写真俳句について紹介していただいたことがあった。そのときには、俳句も写真も、全体から部分を切り取るメトニミーであることを強調したのだが、改めて、写真と俳句の関係を考えてみると、実に興味深い。


まず、このところずっと触れているアイコンとインデックスの区別からすると、写真は、アイコンでもありインデックスでもあるらしい。パースの説明では、元の対象と光学的に一点一点が対応しているからということらしい。ここでも、アイコンであるかインデックスであるかは、写真をどのように解釈するかにかかっているのだろう。

図鑑の写真や絵葉書のような写真は、典型的な画像や風景を描いたものとして、アイコンと見なされるだろう。一方、インデックスならば、その写真と撮影された対象との間で、実際の隣接関係があったということだろう。例えば、人物のスナップ写真ならば、その人のある時期ある瞬間を記録したことは、明確だろう。実は、私自身、いっぱい写真を撮ったりするものの、名所旧跡か生物の種類の写真ということ以外には、なにも思い出せないものがいっぱいある。そのような写真は、アイコンとしてしか機能していないのだろう。ところが誰かを一緒に撮影するだけでその人と一緒にいたことの記念写真になり、一気にインデックス性を帯びてくる。また、写真に説明を付けることによって、写真のインデックス性が増すことになる。そのような説明などを除去してしまえば、イメージだけのアイコンということになる。

写真のインデックス性を強調するならば、そこにはまたメトニミーも関与している。対象と写真との間に隣接関係があり、さらに対象を、クローズアップしたりクローズダウンしたりする「部分と全体」の関係は、メトニミーそのものである。しかも、これと同じことを俳句でもやっている。対象を凝縮された短い言葉で表現することによって。

例によって、写真俳句自体のことをあまり知らずに書いているのだが、以上のことを踏まえるならば、写真と俳句が同じことをやっていて、両者が互いに補足しながらやっていることが想像がつく。どちらも表現方法としてはそれなりの制限をもったものだろうから、両者の特性が相補ってピタリと決まったものは、それは素晴らしいものになるだろうと思う。


(2011/07/08 追記):
上の文章を書くときに、ネットで、写真がアイコンかインデックスかを検索していたら、たまたま「反風景的実践としての「採集」−桑原甲子雄と都市(PDF)」佐藤守弘(2006)という論文を見つけた。桑原甲子雄という写真家のことはまったく知らないのだが、その写真への態度には、妙に親近感を覚える。このブログで「路傍百種」ということで、自宅の生物を写真に撮って「採集」してきたことにも通じるのだろう。また「考現学」などという、言葉は聞いたことはあったが、具体的なことをなにも知らなかった“学問”についても、知ることになった。早速、今和次郎の「考現学入門」という本も買った。このブログで、ヘタクソでピンボケな写真を掲げつつも、多少なりとも意味があるとすれば、その論文で触れられているようなことが関連しているのだろうと思ったりもした。

写真がアイコンかインデックスかを考えることは、なかなか意味がありそうだ。