パースのレプリカと博物館のレプリカ

パースの記号論では、legisign は、sinsign をレプリカとして持つことになっている。つまり、legisign は、一般的なアイデアや規範や法則や習慣などであるから、それを具体化して表現するためには、sinsign としての実例が必要だということなのだろう。

レプリカということでは、以前に博物館のレプリカについて、あれこれ考察したことがある。例えば、「博物館とレプリカ2:いろいろなレプリカ」など。

もちろん、博物館のレプリカとパースのレプリカとでは、単語の意味も違っているだろうが、パースの記号論を踏まえて、博物館のレプリカを考えてみることは意味があるように思える。


そもそも、博物館のレプリカがどのような対象を複製しているかが、問われるだろう。博物館のレプリカを記号として、対象との関連でとらえるならば、アイコン、インデックス、シンボルの区分が当てはまる。

このブログで繰り返し述べて来たように、博物館の意義が唯一無二の標本・資料を保存・展示することにあるとするならば、通常の意味での博物館のレプリカは、元の対象を何らかの形式で複製したものだろう。パースの用語で言えばインデックスであり、元の対象とレプリカとが複製ということを介して隣接関係にあることになる。もちろん、そのような隣接関係が薄れて、ある特徴について複製したものであれば、アイコンのようなものになるだろう。このことは、写真がインデックスとなったり、アイコンとなったりすることに似ている。つまり、写真が、ある瞬間の情景や表情を再現したものであればインデックスであるが、単なるイメージであればアイコンになるようなものだろう。つまり、rhematic indexical sinsign (221) となるか、rhematic iconic sinsign (211)となるかということである。

一方で、記号にシンボル性が現れてくるならば、その記号は legisign であり、それが示しているものは、一般性や法則性に関わることだから、具体化するためにはパースのいうレプリカが必要となる。このようなレプリカは、具体的な対象を指示する訳ではなく(直接的関係ではない)、心のなかに一般的概念を生じさせるという点で、通常のインデックスとは違っている。つまり、記号はrhematic symbol (331)であり、 レプリカは特殊な rhematic indexical sinsign (221)である。

以上のようなパースの記号論を踏まえて考えるならば、博物館でレプリカと言われているものの特質が見えてくるように思える。

実物を単純に複製したものはインデックスである。ところが、そこに実物以上のことを盛り込むことがある。例えば、骨の一部から全体の復元をするような場合は、何らかの概念やタイプを反映させたものであり、実はシンボル性を帯びている。通常の「部分と全体の関係」は隣接関係であるが、その“全体”は実質的なものではなくて、タイプやモデルのようなものである。さらに、ジオラマや模式図などは、実物から離れて、なんらかの概念や法則などを具体化させたものだろう。そこに“本物”としての標本や資料が並べられていたところで、付録のようなものだろう。問題なのは、このようなシンボルからのレプリカを、実物と結びついた真正のインデックスとは違うものだと認識しているかどうかである。

アイコン (211)は、その定義からして、実物のごく一部の特徴を再現したに過ぎないものだろう。ところが、見事なアイコンは、実物よりも単純化されていてわかり易いと思うのか、その意義を見誤りがちなのではないか。ミニチュア模型にしろ、ダイアグラムにしろ、実物を理解するための補助的なものだろう。ところがそれが主役になったりする。博物館で海洋堂のフィギュアが展示されているときに感じた違和感は、そういうものだったようだ。


博物館のレプリカにとって、インデックスであることが重要なことは、誰もが納得できるのではないか。ところが、そこにシンボル性やアイコン性が紛れ込んできて、隣接関係が実質的に失われている場合に、そのことを見極めることは意外と難しい。パースの記号論は、第二次性を区別することによって、そのことの重要性を認識させてくれている。