忠犬ハチ公の剥製の色

「博物館 レプリカ」で検索をしていると、非常に興味深いホームページを見つけた。ハチ公クラブの「博物館の怠慢」という記事なのだが、国立博物館忠犬ハチ公の剥製の色が、経年変化で白くなってしまっているが、本来の秋田犬の色からしても、またおそらく忠犬ハチ公の生きていた当時の状態からしても、赤い色をしていたはずだということで、白いままに放置していることは“博物館の怠慢”であるというものである。しかも、博物館で売っているハチ公の“ミニチュア・レプリカ”が白いことにも不満を述べられている。


忠犬ハチ公の剥製は、文字通りハチ公そのものであるが、また標本でもある。ハチ公の生きていた状態からすれば、多くのものが失われた遺物だろう。さらに、剥製を作成するに当たって、中身などを取り出して、毛皮を成形したものだろう。だから、どんなポーズや表情をするかは、なんらかのハチ公のイメージなり、秋田犬の一般的な特徴なりに基づいて復元されたものだろう。つまり、昨日述べたパースの記号論からすれば、ハチ公の遺体から部分を引き継いだものとしてインデックスということでもあり、またなんらかのタイプ化された観念を含んだものとしてシンボルでもあるのだろう。

生物の標本を扱ったことがある人ならば、標本が生きていたときの状態を残していないことは当たり前のことだろう。とりわけ生きている時の体色などは、通常は急速に失われるものだから、カラー写真でも残さない限りは、消えてしまう。いったん色が失われてしまった標本は、通常はそういうものとして扱われるだろう。そこに、改めて元の色に戻すために、新たに色を付け加えるなどということはしないものだろう。だから、ハチ公の標本として作成されたものが経年変化で色が白くなったとしても、そのままで放置している博物館の処置は、理解できないこともない。

一方で、ハチ公の標本に対して、赤い色に戻すべきだと主張されている上記のホームページの著者は、秋田犬の典型的な色が赤色であり、秋田犬であるハチ公もまた赤い色をしていたはずだと想定されているようだ。つまり、ハチ公の剥製もまたそのような“法則性”に基づくべきだと考えておられるようで、シンボル性を強調されていることになる。

結局のところ、ハチ公の剥製がインデックスでもありシンボルでもあるところから、どちらを強調するべきなのかということなのだろう。


似たような事例として、和歌山県立自然博物館で見たニホンオオカミの剥製を思い出す。世界に6体しか残っていない標本のひとつらしいのだが、その写真を見ればわかるように、実に“貧相”な剥製であり、とてもオオカミのイメージに結びつかない。それにもかかわらず、この標本が貴重なのは、動物の実際の標本だからだろう。こちらは、標本としてのインデックス性が重視されていることになる。

この反対に、考古学的資料が経時的に劣化するというので、出土時点で作成したレプリカの方が、状態がいいという主張がされたりする(「レプリカ礼讃・レプリカのすすめ」)。その反論は、「なぜ本物を展示するのか:反「レプリカ礼賛」」で述べた。こちらの方は、出土時点の標本の状態を強調するなら、その時点のインデックスということになるが、劣化が進んでいない“完全”に近い状態というのなら、シンボルを想定していることになる。


ちなみに、博物館で販売されていたというハチ公の“ミニチュア・レプリカ”は、アイコンだろう。ただし、なにに似せるかで、剥製に似せるか、ハチ公の生きていたときのイメージに似せるかは選択肢で、この場合には剥製に似せたということなのだろう。


最後に、ハチ公にまつわる、パースの記号論的な対応をまとめて掲げる。
・ハチ公の剥製全体:Rhematic Symbol (–ic Legisign) (331)
・ハチ公の毛皮などのハチ公の体の一部:Rhematic Indexical Sinsign (221)
・ハチ公という犬:対象そのもの (今は生存しないのだから、Dynamic object)
・ハチ公が生きていた時のイメージ:Rhematic Symbol (–ic Legisign) (331)
・秋田犬:Rhematic Symbol (–ic Legisign) (331)
・ハチ公のミニチュア・レプリカ(のデザイン):(Rhematic) Iconic Legisign (311)
・ハチ公の個々のレプリカ: (Rhematic) Iconic Sinsign (211)


(2011/12/05 追記):上のパースの記号論による番号付けを、この記事の追記に従って修正しました。アクセス解析を見ると、この記事は比較的よく読まれているようです(月に数十件のレベルですが)。もしも、ハチ公という犬の存在に思い入れを持たれている方が読まれるとしたら、この記事は期待はずれかも知れません。あくまでも、生物の標本として論じているのだということを、ご理解ください。