博物館とレプリカ2:いろいろなレプリカ

先に、海洋堂のフィギュアと博物館のレプリカを対比したが、いろいろなレプリカ(模造品)について考えてみたい。

そんなことを考えていたら、先の記事の翌日(3/20)のニュースで、法隆寺の「秘宝展」があるということで、玉虫厨子のレプリカのことが報じられていた。あるお金持ちが、一基が数千万で、総額では一億円を超える費用を負担したらしい。そのうちの一基は復元で、羽根の位置を実物に忠実に再現。もう一基は、本体下部の柱や仏画にも羽根(計約3万6000枚)を使ったとのことだ。いずれにしても、現存する古びたものに対して、製作当時の状況を再現しようしたものだろう。そして、材料や製法を忠実に再現しようとすると、このような費用がかかるらしい。

ここで考えるべきことは、人間が製作したものについては、材料や技術についても再現可能ということだろう。技術の伝承とかの問題はあるかも知れないが、過去の人々が製作したとおりに再現することは不可能なことではない。実際に、過去の人々の技法を再現する(土器を焼いたり、石器を作ったりする)ことによって、新しい発見をもたらすことを目指す「実験考古学」という分野もあるらしい。ついでに、旧石器を捏造するという事件もあったが、このような単純なものでは、専門家も簡単に騙されたことになる。簡単に再現できないものがあるとすれば、製作者特有の技法やオリジナリティのようなものだろう。それで、美術品ともなると、レプリカの価値は低くなるのだろう。上の玉虫厨子でも、何千万円もかかったという制作費としての値段はあるかも知れないが、それをレプリカとしてみる限りは、本物の価値に比べようもないものだろう。

博物館の人に、レプリカの出来の良さを言われるまでもなく、世の中にはレプリカがあふれている。外国から来るスパムメールで、時計のレプリカに関するものがかなりある。時計などは正確な時刻を示せばよいものと考えている者としては、なぜレプリカ?と思っていたら、元になる時計がとんでもなく高いらしい。植物のレプリカということでは、造花を飾ることもごく普通だろうし、レストランの食事の見本もあるだろうし、うまく真似たものでは、実際に触れてみないとわからないものもある。海洋堂のフィギュアもある種のレプリカだろうが、あれほど人気があるのは、単なる生き物の複製ではなく、なんらかの特徴をうまくとらえた作者のオリジナリティがあるからだろうか。

究極のレプリカ作りは、ニセ金作りだろう。ニセ札防止のためには、見えないところに隠された特徴を組み込んであると聞いたことがある。貨幣にはそのような細工をしにくいから、何年か前に出た金貨で金の量をケチったら、偽造の金貨が大量に出回ったと聞いたことがある。

バーチャルリアリティという言葉が流行ったことがある。これも映像や音響を駆使したある種のレプリカだろう。博物館や水族館でも取り入れたと聞いたことがあるが、今はどうなっているのだろうか。実はそんな大がかりなことを言わなくても、写真や動画も、なんらかの情報を複製しているのだろうし、録音やCDなども、レプリカだろう。これらは、技術の進歩のおかげで、簡単に記録に残せるようになったことになるし、またすばらしいものに簡単に触れることも出来るようになったことになる。

人間がものを製作すること自体が、過去のものを模倣するとともに、工夫やオリジナリティを付け加えていくことだと考えれば、レプリカを製作すること自体、新たなものを創造することだとはいえないわけではない。しかし、博物館のレプリカの出来の良さを誉める人は、レプリカにそのようなものを盛り込もうとしているわけではないだろう。

以上、レプリカについてあれこれ考えたことを、メモのように書いてみた。レプリカと本物との対比で考えれば、レプリカは所詮はまがい物である。レプリカにも本物にない別の世界があるということも理解できないわけではないが、本物にこだわるべき博物館が目指すべき方向性ではないだろう。「なんや、ニセモノか」という発言は、博物館に本物を求めている素直な感想だと思えるのだが、レプリカにこだわっている人はどのように受け止めるのだろうか?