メタファー分類へのパースの三項図式の適用

先に「パースの三項図式によるレトリックの解釈」で概要を述べたことを、実際のメタファーに適用してみたい。


メタファーが、何らかの喩えるもの(喩辞)で、何らかの喩えられるもの(被喩辞)を表現することであるとするならば、上の図のようにパースの三角形を2つ並べてみて、三項図式(記号 S、対象 O、解釈内容 I)のどの項目が対照されているかを考えてみたい。もちろん、それでなぜメタファーとして納得できるのかは、別途考えなければならないが、まず観念の連合があって、その後に類似性を考えるというのは、パースの考えとも合っているように思える。



まず、私の分類における Metaphor1で、特性類似、またはイメージの類似である。対象のところに物が来て、その性質(を持った物)が記号となる。つまりアイコンの関係になっている。例では、人生の性質、特性、状態などを、入れ物に対応する用語で置き換えることで、メタファーとなるようだ。喩えられているものが、とらえどころのない、表現しにくいもので、具体的な入れ物の性質を使って表現しているのだろう。


次に、Metaphor2 で、形態類似の場合には、空間的な隣接関係にあるものが、対象と記号の位置を占める。つまり、インデックスの関係になる。例では、人と首という全体と部分の関係によって、ビンのある部分を表現している。空間を構成する、上下、前後、左右などに関わるようなものは、このメタファーの図式と関連するだろう。さらに、機能についても、プロセスの前後について、近接関係と捉えれば、この図式となる。例えば、水を注ぐー吸い込まれる、金を注ぐー吸い込まれる、といった対比で、お金の使われ方が表現される。



次に、Metaphor3 として、シネクドキやシンボルが関わるメタファーであるが、ここではじめて真正の三項図式になるのだが、実は、どの項目がどう対応するのか、現時点では、あまり自信がない。上の例は、二重提喩で説明されるメタファーとして、取り上げられていた例である。(あの男)⊂(残虐な生物)⊃(狼)ということで、説明される。しかし、この関係ならば、むしろ特性=残虐さによる対照として、Metaphor1として説明されるかもしれない。


シンボルとして、本来の三項関係を考えると、上のような図式になるかも知れない。


ここで、改めてシネクドキのことを考えてみると、食物一般をパンで表現するという類を種で表現する場合に、そのような階層を規定する論理があるように思える。つまり、一番だ、元祖だ、代表だというような、そういうものが解釈内容としてその類と種の関係を規定しているのではないか。だから、「食物−パン」というシネクドキは、通常は、「人はパンのみにて生きるにあらず」という文脈とセットにして用いられる。

類で種を表す場合も同様である。親子丼が「鶏肉と卵」であるのは、玉子丼、他人丼とセットになっているからだろう。「身内に不幸」というのは、種をぼかす論理が「身内=誰とは言わない」にも「不幸=具体的に言わない」にも働いているのだろう。「花−桜」には、春−花見−桜 という一連の図式があるのではないか。春という文脈がなければ、花から桜が思い浮かぶはずがないと思える。

以上のことから、シネクドキは、実はメタファーの片割れではないかと思えてくる。さらに、シネクドキがメタファーとしばしば混同されることの意味が、見えてくるように思える。



ここまで考えて来たことを踏まえて、概念メタファーを考えてみる。「議論は戦争だ」といったメタファーから、多くのメタファーが派生することの意味は、上の三角形の項目に多様な単語が入れられることと解釈される。例えば、右側のサインのところに、戦争にまつわる性質を示す単語が入れば、Metaphor1 となる。戦争と隣接関係になるような単語が入ればインデックスの関係になり、Metaphor2となる。階層関係になるような概念が入ればシネクドキとなり、Metaphor3となる。おそらく、シンボルにまつわる概念の派生関係は、さらに複雑なものを含んでいるだろうから、Metaphor3 はさらに多様なものになると思われる。

概念メタファーはアナロジーであると見なされるらしい。たしかに、異なる領域間の写像における項目の対応ということではアナロジーではあるのだろうが、パースの三角形を用いることで、対照されている項目の領域内での意味が、はるかに明瞭に理解されるようになる。


以上、解きほぐせたと思えることを掲げてみた。私のパースの思想の理解はまだまだなので、今後もいろいろな項目(例えば命題など)を取り入れながら、理解を深めて行きたい。