「坊っちゃん」の登場人物とレトリック

今年のはじめに、メトニミーやメタファーの実例を調べようとして、夏目漱石の「坊っちゃん」の登場人物のことを青空文庫で調べていたら、、結局全部読んでしまった。これまでに何回読んだか覚えていないが、年をとったせいか、単なる痛快物語ではなく登場人物の悲哀のようなものが、少しは理解できるようになった。それに、テレビで「坂の上の雲」を見たこともあって、松山の方言が妙に懐かしかった。

ネットで検索してみると、大学のレポートなどで、この小説の登場人物がどの比喩に当てはまるのか、出題されたりするらしい。そして、ネットを見ると、赤シャツはメトニミー(換喩)、山嵐やうらなりはメタファー(隠喩)などとお決まりの答えが書いてある。今時の学生は、ネットで解答を調べるそうだから、ここは話を混乱させるためにも、独断に満ちた説を書いておこう(^^)


赤シャツがメトニミーということは、一番わかり易いだろう。年中赤シャツを着ているとのことだから、「部分で全体を表現」するメトニミーということだろう。それでも、男のくせに赤いものをという意味で、シンボル的な意味合いを込めたメタファーが混じっているかも知れない。なぜならば、黒シャツならば、またイメージが違ってくるだろう。

その他の登場人物はというと、Wikipediaに解説がある。ざっと見ると、大多数は、メタファーだと思える。

その中で、あえてシネクドキ(提喩)に当てはまりそうなのが、マドンナだろう。マドンナの本来の意味は、私の淑女とか、聖母マリアの意味だろうが、坊っちゃんの下宿のお婆さんは、「マドンナと云うと唐人(とうじん)の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」と言っている。坊っちゃんは、芸者の名前だと思っている。さらに赤シャツや野だにとっては、ある女性に対する呼び名でもあるが、ターナー島の岩の上にラフハエルのマドンナを置いたらなどとも言っている。つまり、場面や人によって、一般名と特定の人の名前(類と種の間)を行ったり来たりしている。

校長は、「薄髯(うすひげ)のある、色の黒い、目の大きな狸(たぬき)のような男」だそうだから、外見そのものの類似性(アイコン的な)によるメタファーであろう。先に述べた私の分類では、Metaphor1 だろう。

山嵐は、堀田が本名らしいが、「逞(たくま)しい毬栗坊主(いがぐりぼうず)で、叡山(えいざん)の悪僧(あくそう)と云うべき面構(つらがまえ)」ということで、これも外見の類似性による Metaphor1 だろう。もちろん全体的な雰囲気や挙動なども含まれているだろうから、Metaphor3も混じっているのだろう。

うらなり君の古賀は、少し複雑である。「大変顔色の悪(わ)るい男が居た。大概顔の蒼(あお)い人は瘠(や)せてるもんだがこの男は蒼くふくれている」とあるから、顔色からうらなりというのかと思ったら、清との間で、以下のようなやりとりがあったらしい。

(昔の同級生は)うらなりの唐茄子(とうなす)ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬(むく)いだと思う。この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違(ちが)いない。もっともうらなりとは何の事か今もって知らない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。大方清も知らないんだろう。

うらなりというのは末成りで、蔓の先端に実るものらしい。それで末成りカボチャの特性と結び付けられないこともないが、むしろ、坊っちゃん独自の思い出と見立てが組み合わさったシンボル的な意味が込められていて、Metaphor3 であろう。

野だという画学の教師(吉川)についても、芸人風で、しゃべり方や態度が、野太鼓のようだから、シンボル的な意味で、Metaphor3 であろう。坊っちゃんが、下宿のお婆さんと話していて、赤シャツについては、「赤シャツさん」ということですぐに通じたのに、野だについては、

(マドンナの名前は)
「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川(よしかわ)先生がお付けたのじゃがなもし」

ということで、坊っちゃんがその謂われを説明しないことには、他の人には理解できなかったようだ。

坊っちゃん自体、清にとっては、主人の子供で、字義通りの呼び方である。ところが坊っちゃん自身にとっては、いつまでも坊っちゃんと呼ぶのは馬鹿気ていると思っている。このように、時間が経っても坊っちゃんと呼ばれるのは、時間的な近接関係によるメトニミーだろう。ところが、野だから「勇み肌の坊っちゃんだ」と言われると、「べらんめえの坊っちゃんた何だ」と問い詰めることになる。これは、悪意を込めたメタファーとなっているからだろう。さらに、坊っちゃんは普通名詞であり、坊っちゃんと呼ばれる主人公は、類で種を示すシネクドキでもある。

だから、呼び名自体に、どれかひとつの正解があるのではなくて、どのような視点で読み取るか(もちろん、漱石が書いた文脈と整合した読み取りをしなければならないが)で、いろいろに解釈できることになる。

なお、Metaphor1-3 については、私以外の人は誰も認めていないものだから、レポートなどに、そのままコピペしないように(^^)


以上のように登場人物を分析してみると、この小説は本名で語られても少しも面白くなかっただろうと思う。江戸っ子の坊っちゃんが、田舎の中学校の有象無象のことを語るためには、この呼び名でないといけなかったのだろう。そして、清だけが本名で呼ばれ、ことあるごとに清と対比されている。誰かが、清が影の主人公であると言っていたことを思い出す。たしかに、清の名前の登場回数は一番多いようだ。そんな分析ができるのも、青空文庫で、デジタルテキストを提供してくれていたおかげである。作成者に深く感謝します。