個物と個物の関係としての隣接関係
隣接関係というと、個物と個物の関係だと思っていた。ところが、『「ぼくはウナギだ」(ウナギ文)は、シネクドキだ 3』でのコメントのやり取りで、必ずしもすべての人がそのように受け取っていないことに気がついた。
その記事で引用した今田水穂氏の「日本語名詞述語文の意味論的・機能論的分析」の中で、p103 以下の「隣接関係の諸事例」には、異質のものが含まれているように思えた。ここでは、この「隣接関係の諸事例」を実例として借用させてもらって、“隣接関係”として取り上げられているものを、個物と個物の関係にこだわって分析し直すことによって、どのようなことが見えてくるか考えてみたい。
引用論文中では、「場所」、「文末名詞文」、「数量・性質など」、「述語的属性」の4つの小見出しの下に論じられているので、この順番に触れて行きたい。
まず「場所」として取り上げられている例について。ある「対象」をある「場所」と関連付けるのは、典型的な隣接関係だろう。対象と場所が、個物と個物として向き合っている。
ところが、「時間」は似ているようでいて、少し事情が違っているように思える。「71年がニクソンショック、83年は日米ドル委の発足だ」において、時間の流れの中での特定の点と考えれば個物だろうが、そのような時間の捉え方自体が、なんらかの時間的な尺度を基準にして、それとのメタファーのように思える(私のメタファーの分類ではMetaphor2)。もちろん、元の尺度自体は、インデックスであり、その目盛りは同士は隣接関係だろう。同様なことは、「柏レイソルは現在15位だ」という例についても、温度の例についても、なんらかの尺度に対するメタファーのように思える。むしろ、隣接関係を取り出したいのならば、「ニクソンショックに続いて日米ドル委が発足した」のように、AはBよりも前だ・後だ、上だ・下だのような二項間の関係にするべきではないか。
次に、「文末名詞文」について。「太郎は元気な様子だ」などのように、文末に名詞がくることによって、“隣接関係”ということらしい。しかし、このような抽象的な名詞は、実体のある個物とは思えない。「太郎は元気だ」ならば、単純に状態を記述しているだけだろう。そこに「様子」という名詞が付け加わることによって、「元気だ」が類型化されると同時に“もの化”しているように思える。類型化とすればクラスに関わるし、もの化とすれば隣接関係と受け取れるのだろう。いずれにしても、典型的な個物と個物の隣接関係とは異なっている。
ところが、「ピーターは面白い顔だ」となると、また違ってくる。ピーターとその顔は、全体と部分の隣接関係だろう。「ピーターの顔は面白い」、「ピーターは顔が面白い」となれば、「象は鼻が長い」で分析したところである。
それで、このような文末名詞文にもいろいろなものがあるということで、部類、側面、部分に区分されている。この3区分は、帰属関係と隣接関係を両端として、相互に移行しているように思える。部類というのは、「彼は学生だ」のように、まさにクラスへの帰属だろう。He is a student. ならば、帰属を示すとともに、a student となることによって、彼と一例との間で、“派生した隣接関係”となっている。一方、部分ならば、「彼はのっぽだ」は「彼は高い背だ」あるいは「彼は背が高い」ということで、彼と背が、全体と部分の隣接関係である。
そして、側面はどっちつかずの中間に位置づけられているように見える。「彼は優しい性格だ」で、「性格」をどのように捉えるかにかかっている。性格をクラスと見れば部類に近づくし、性格を彼の部分と見れば、彼と性格は隣接関係になるのだろう。しかし、文末に来る名詞として挙げられているリストを見ると、大部分の単語は抽象的な類型や範疇を示すような言葉であると思える。そういう点では、本来はクラスであったものが、もの化することによって、派生的に隣接関係に見えているものと思える。He is a gentle nature. はそういう意味だろう。
次は、「数量・性質」について。ここでの例は、ほとんどがクラスに関するものと思える。述語が数量化されるということ自体、その単位を要素とするクラスになっているのだろう。また性質についても、「ヴェルサイユ宮殿はバロック様式だ」で、類型化されたクラスへの帰属ということだろう。さらに、「灰はアルカリ性だ」のように、主語がクラスに関するものなら、「クラスA ⊂ クラスB」の包含関係だろう。
ここでは、基本的には、個物と個物の隣接関係は見当たらないのだが、「このスイカは赤紫色だ」で、「このスイカの果肉は赤紫色だ」と解釈すれば、全体−部分の隣接関係となり、前の例文は全体で部分を表すメトニミーとなっている。
最後に、「述語的属性」について。この例は、「この製品は日本製だ」、「この絵画はゴッホ作だ」のように、このまま解釈すれば、述語はクラスだろう。しかし。「この絵画の作者はゴッホだ」とすれば、全体の文章は役割−値文ではあるが、この絵画とゴッホとが隣接関係であることが読み取れる。ところが、「この物体は金属製だ」や「このワインは1960年産だ」では、隣接性を読み取りにくい。
この箇所の説明が、また興味深い。このような属性は、形式的クオリア、構成的クオリア、動作主的クオリア、目的クオリアに分類されるらしい。クオリアなどという単語を用いる意図は知らないが、これらは明らかにアリストテレスの四原因(質料因・形相因・作用因・目的因)を意識したものだろう。このうちで、動作主的クオリア=作用因については、誰が行ったという意味で、個物性が読み取り易いのだろう。一方、構成的クオリア=質量因では個物性が読み取りにくい。
さらに、目的クオリアの例文として、「この製品は子供用だ」が挙げられている。目的因は未来の目標に対するものだから、因果論的な法則性を思い浮かべるとクラスに関わるものだろうが、「この製品は、来月生まれる子供のためのものだ」とすれば、個物と個物の関係を読み取ることも出来る。
以上、“隣接関係”とみなされている実例について、個物と個物の関係を読み取ろうとして来た。異なる目的で並べられた実例を、勝手に切り分けることになって、著者には申し訳ないが、このことによって、派生的な関係が、どのように生じて来るのかも見えてくるのではないだろうか。
「ぼくはウナギだ」の解釈を勉強していて、copula 文の分析の厚みには圧倒された。しかし、主語と述語で、個物かクラスかに注目すれば、「個物−個物」、「個物−クラス」、「クラス−個物」、「クラス−クラス」の4つの組み合わせということになる。この4組のそれぞれが意味することは、いろいろな側面から考えられるだろう。また、過去の coplua 文の類型との対応も考えなければならないだろう。
さらに、個物は、文脈への依存性にも関わっている。“隣接関係”といわれる文章の中には、「文脈がなければ理解できないような非典型的な関係」のあることが指摘されている。「個物−個物」というのは、個物同士が偶然に関係を持ったのだから、そこには必然的な理由がない。だから文脈が必要となる。「警察署は消防署の隣だ」は、文脈の助けがなくても適切に解釈できるとなっているが、特定の場所に対する情報や知識がなければ、意味をなさない。「個物 ⇔ クラス」においても、個物の意味が、文章の真偽に関わることになり、個物を示すことが文脈となるのだろう。「クラス−クラス」となって、文脈から完全に独立となるのではないか。
このブログでは繰り返し述べて来たことであるが、メトニミーとシネクドキの区別においても、個物の区別は重要である。シネクドキがクラスの包含関係に関わるものとするならば、メトニミーは「個物−個物」の関係でなければならない。copula 文の分析において、メトニミーに言及しながら、実は「個物−個物」の関係を論じていない! というのが、『「ぼくはウナギだ」(ウナギ文)は、シネクドキだ』の一連の議論で論じたことだった。
蛇足ながら、このブログでは、言語のことを考えること、我が家の庭で見つけた生き物を考えることなど、一見するとまったく関係のないような記事が入り交じっている。生き物のことについても、私と生き物との隣接関係を書いているつもりである。