井崎正敏 (2008)「“考える”とはどういうことか?―思考・論理・倫理・レトリック」

前に、メタファーとメトニミーが演繹と帰納にそれぞれ関わっているのではないかと書いた。そんなことは、誰かが以前に考えているに違いないと、その後いろいろ調べていると、井崎 正敏 (2008)の「“考える”とはどういうことか?―思考・論理・倫理・レトリック」という本が、まさに同じようなことを述べているようだった。それで早速購入して読んでみた。

この本の著者は元々は出版社の編集者であり、必ずしも専門の学者ではないようで、この本の議論が、この関連の分野でどのように受け入れられているかわからない。しかし、非常に分かりやすく書かれていて、しかも同じようなことを自分でも考えていたのだから、一気に読み通せて、大いに参考になった。レトリックにしろロジックにしろ、思考のメカニズムの根本に立ち返るならば、つながってくるというのは、私の発想とも一致する。


一致しないのは、以下の対応についてである。この本では、
   演繹−提喩(シネクドキ)
   帰納−隠喩(メタファー)
   アブダクション−換喩(メトニミー)
と対応づけられているようだ。


一方、私は、以下のように考えた。
   演繹−メタファー
   帰納−メトニミー
   アブダクション(データから仮説を導く過程について)−メトニミー


それで、改めて考えなおしてみると、前提と結論、特定と一般など、ふたつの異なるものを結びつけることからすると、演繹も帰納もメタファーであると思える。問題なのは、そのメタファーを成り立たせている“論理”が、演繹の場合には、包摂関係に基づくものであれば、シネクドキに基づくメタファーであり、帰納の場合には、枚挙されたものが隣接関係に基づくものであれば、メトニミーに基づくメタファーとなるのだろう。「メタファーを分けること - ebikusuの博物誌」 も参照のこと。


おそらく、推論の元になる前提や対象に注目するか、推論の過程に注目するかによって、レトリックと推論との対応は、違って見えるのだろう。さらに、演繹や帰納には、多様な推論の形式が含まれていることだろうから、最初に思っていたほどには、単純には対応しないようだ。

アブダクションについても、パースが言っていることから、人によって解釈がずいぶん違っていて、一概には言えないようだ。データから仮説までの過程がテンタティブというのなら、メトニミーでいう隣接関係とみなせるのだろうか。


こんなことを考え出したのは、先に触れた内井惣七「科学哲学入門」で、帰納法について触れられていたことに刺激されたこともあるのだが、それと同時に、「系統樹思考−アブダクション−メトニミー」の対応を示されて、そのままウノミにするのではなく、自分なりに考えてみたかったこともある。とは言うものの、帰納や演繹には、壮大な歴史や背景があるようなので、とても私の手に負えるものではなさそうだ。


レトリックのことを考えるのは、生物でいろいろな比較をすることについて、その背景を考えたいからである。レトリックの基盤となっている類似性や隣接性は、association by resemblance や association by contiguity ということで、これまたイギリスの経験論の歴史とも関わっているらしい。こちらについては、今後も考えていきたい。


(2010/11/09 追記):
類似性や隣接性について、パースの哲学との関わりについては、こちらのブログに少し触れてある。
心の習慣が世界に安定性(stability)をもたらす - 現在思想のために

さらに、英国経験主義との関わりについては、以下の論文が参考になった。
依田義右. 1999. 観念連合の淵源について. 大阪芸術大学紀要 『藝術』 22巻.PDF)