「隠喩の二重提喩論」再考

メタファー分類へのパースの三項図式の適用」の続きとして、以下の論文を取り上げてみたい。

内海 彰 (2008). グループμの「隠喩の二重提喩論」再考 −(二段階)カテゴリー化理論との関係−, 日本認知科学会「文学と認知・コンピュータ研究分科会II」第15回定例研究会資料, G15-03/ 人工知能学会第29回ことば工学研究会資料, 51-62. (PDF)

この論文は、2年程前に「シネクドキとメトニミーの区別について」を論じていたときに、ネット上で読める論文を取り上げようとして、一生懸命に読んだ論文だったのだが、結局その当時は内容を十分に理解できずに、取り上げることが出来なかった。


今となってみれば、当時は、シネクドキとメトニミーの区別しか興味がなかったので、メタファー自体のことになると、理解がついていかなかったようだ。動詞隠喩や形容詞隠喩があることすらも知らなかったのだが、そういう隠喩で、被喩辞α が明示されていないという説明などは、ちょっとした驚きだった。

ところが、先に「メタファー分類へのパースの三項図式の適用」を考えた後では、このあたりの内容が、一気に理解できるようになった。むしろ、パースの三項図式に並べてみると、「二段階カテゴリー化理論」などという複雑な話しも、もっと単純に理解できるような気がして来る。


それで、上の論文で取り上げられているいくつかの例について、パースの三項図式で読み解いてみたい。

まず、被喩辞と喩辞を掲げる。

名詞隠喩の「あの男は狼だ」については、「メタファー分類へのパースの三項図式の適用」でも論じた。「獰猛で危険な生き物」というアドホックカテゴリーを間に介在させて、(あの男)⊂(獰猛で危険な生き物)⊃(狼)だとするなら二重提喩による解釈になるだろうし、あの男と狼の特性の共通性によるのならMetaphor1 だろうし、あの男や狼に対して解釈内容(interpretant)が介在するようになって、シンボルとして見なされるならば、解釈内容同志の対比としてのMetaphor3となるだろう。、


次に、「ジョンはバイクに飛び乗って,家に飛んで帰った」という比喩について、ジョンが「バイクで移動する−到着する(帰る)」と「飛行機が飛ぶ−到着する」のそれぞれについて、プロセスについての近接関係によるインデックスだと考えれば、以下のようなダイアグラムの対比としての Metaphor2 が考えられる。


このようなパースの三項図式に当てはめることの利点は、なにを対比させているのかが明瞭になることだろう。「ジョンδ のα するという行為は,γ が飛ぶβという行為である」などという複雑なことを言わなくても、単純に2つ動詞を対比させているだけだと気がつく。


また、「赤い声」という形容詞比喩にしても、以下のような対比と見なされるだろう。


何かが『赤い』ということによって、声が『αである状態』を、なぞらえているのだと考えれば、特性の比較ということで Metaphor1ということだろう。もちろんこの話は、何かが赤いということの解釈内容が、特有の意味合いを持つというならば、その解釈内容と、声のαな状態についての解釈内容とを対比していると考えれば、Metaphor3 ということだろう。

この解釈内容を対比させるということは、まさに上の論文で述べられている「二段階カテゴリー化」というものに対応するのではないだろうか。声がαであること、何かが赤いということ、それぞれから解釈されることが立ち現われて、その解釈内容同士が対比させられる。

内海氏の論文には、隠喩理解の認知理論ということで、他にもいろいろ複雑な理論が紹介されている。しかし、アドホックカテゴリーをはじめとして、あまりにもメタファーの実例にとらわれ過ぎていて、まさにアドホックな説明を提唱しているだけのように思える。それに比べれば、パースのものは記号の解釈のためのものとして一貫している。


メタファーを二重提喩と解釈することについては、Metaphor1-3 を区別したことからすると、二重提喩で説明しなくても済むメタファーもあるし、さらに二重提喩で説明されてきたものでも、実は単に特性(イメージ)を対比しただけのMetaphor1などがあると思っている。

内海氏の論文では、「名詞隠喩は (Sg + Sp)Σ型の二重提喩で説明できる」「述語隠喩の一部は、 (Sg + Sp)Σ型で、残りの述語隠喩(特に形容詞隠喩)は(Sp + Sg)Σ型で説明できる」ということが、大きな結論となっている。このことは、私にとっては長い間理解できなかったところで、ふーんそんなものかと読み流すだけだった。

ここでは、、このところ copula のことを考察したことが、関連するものと考えている。コピュラ文を勉強してみると、その多様性に圧倒されるのだが、それでも、そのかなりの部分はシネクドキに関することだろう。例えば、措定文はより大きな類に帰属させるという意味で Sgであり、倒置指定文はより大きな類を先に出して種や個体を指定するという意味で Sp と解釈されるのではないか。そんなことを取り入れながら、なぜ、ある場合には (Sg + Sp)Σ型となり、別の場合には (Sp + Sg)Σ型 になるのかを、解きほぐせるのではないかと考えている。


要するに、「AはBだ」という単純な表現は、コピュラ文であるが、またメタファーにもなりうる。対象そのものの理解も、理解する道具立ても、まだまだ考えて行かなければならない。