役割と値とシネクドキ

前回引用した今田水穂(2009)「日本語名詞述語文の意味論的・機能論的分析」の論文にある「役割と値」について触れたい。役割と値というのは、Fauconnier (1985) によるものらしい。その本を実際に手に入れて読むかどうかは、少し考慮中であるが、現時点で今田の論文から感じたことを書いておきたい。

このブログでは、クラスと個物(individual)の区別について、延々と考えて来た。生物の種がクラスであるか個物であるかということから始まって、メトニミーとシネクドキの区別や、パースのインデックスやシンボルなどに言及して来た。それというのも、ヒトの思考の主要な部分が概念やクラスやシンボルなどに基づいているのだとしても、個物に基づくものを見極めたいと思うからである。

上の今田氏の論文では、名詞句によって表される事物や概念について、「個体」と「種」と「役割」という3つの“存在物”を扱っている。私が考えてきたことからすると、個体は個物に、種はクラスに、大筋のところでは対応しているものと思われる(ただし、種については、この後さらに考察する)。そうすると、役割がどっちつかずのものになり、クラスと個物の区別を曖昧にするもののように思われる。

私の印象をざっくりと述べてしまえば、役割というものは、大筋ではクラスなのだと思う(今後も検証していくつもりだが)。話をややこしくしているのは、日常言語のいい加減さで、文脈に応じてクラスと個物を適当に処理しているところにあるのだと思う。

役割と値は、内包と外延に当たるというのだから、素直に考えれば、クラスとメンバーということだろう。それならば、著者の言う「種」と同じもののように思われるが、いくつかの違いもあるらしい。例えば、役割の場合には、個別の値に対して言及するような表現が可能であるが、種の場合には、個別の個体に言及するような表現を取ることができないらしい。このことは、役割は比較的少数の値を持つが、種は不特定多数の要素を外延として持つということも関わっているらしい。

しかし、このような細かな区別がなされるとしても、種も役割も、外延や内包として考えられる点では、クラスと見なされるものと思われる。むしろ、そこから抽象的個体と見なされる場合を区別することの方が、はるかに重要だと考える。

同じように個体が集まったもののように見えて、クラスと抽象的個体とでは、存在論的な意味合いが違っている。例えば、全体と構成する個体との関係を考えるときに、通常の種や役割ならば、クラスとメンバーの関係になるだろうが、抽象的個体ならば、全体と部分との関係になるだろう。さらに、今田氏のいうような時間断片(time stage)を考えるためには、種や役割が抽象的個体でなければならない。

種と役割の違いが出てくるのは、役割の方が、個物性が現れることが多いからではないか。Fauconnier の定義を見たわけではないが、今田の論文からは以下のような特性が読み取れる。種の内包が外延をきっちりと定義するものであるのに対して、役割の内包は一時的なものであったり任意のものだったりする。役割はルーズな集まりでありながら、特定の“役割”を担う主体であったりする。さらに、メンバーが少ないときには、個々のメンバーが独自に個体として振る舞うことが目立つことになる。場合によっては、値が唯一のこともある。これならば、役割も値も、個体と同じことになる。

もちろん、日常言語では、クラスや個物をいちいち厳密に区別などしていないのだろう。だから、種でも役割でも、文脈に応じて集団がどのような側面を指示しているのかは適当に読み取ることになる。

このような集まりの議論ということでは、以前に「シネクドキとメトニミーの区別について:ネット上の論文から1 - ebikusuの博物誌」で黒田航氏と議論したことを思い出す。The Beatles というものがどういう存在なのかを考えるときに、その当時の私の考え方では、Beatles がクラスでないのなら、個物であると見なすしかないということだったが、今になって思えば、黒田氏のいうクラスでない“グループ”というのは、役割が当てはまるかも知れない。

しかし、種にしろ、役割にしろ、それがクラスなのか個物として機能しているのか、峻別することが重要である。もし Beatles のメンバーがなんらかの法則性や規則性のもとに集まっていると見なすならクラスだろうし、個体の集まりであると同時に、全体として個体のように機能していると見なすなら個物だろう。もちろん私は、Beatles は個物であると思っている。

また、個体同志ならば隣接関係になれるが、クラスとしての種や役割は、隣接関係にはなれない。私は、Beatlesとは隣接関係になれるが、音楽家というクラスとは隣接関係になれない。もちろん、音楽家というクラスのメンバーは個体であるから、隣接関係になれる。



ところで、役割と値という“存在”は、Fauconnier のメンタル・スペース理論と密接につながっているらしい。そして、以下のような原理が引用されている。

Identification(ID) Principle If two objects (in the most general sense), a and b, are linked by a pragmatic function F ( b = F (a )), a description of a, da, may be used to identify its counterpart b. Fauconnier (1985, p.3)

ふたつの対象がなんらかリンクで結び付けられているときに、片方の記載によって、もう一方を特定出来る場合があるということらしい。そこで、ふたつの対象を結びつけるリンクとして、メトニミー、異なるスペース間、役割と値の3つが挙げられている。

ここで、Fauconnier のことをまったく知らないクセに(知らないからこそ)、大胆なことを述べてみたい。

この3つのリンク、よくよく考えてみると、メトニミー、メタファー、シネクドキに対応しているのではないか? 役割と値がクラスであるならば、概念の階層性から、類と種あるいは種と個体の関係だろう。そう考えれば、役割と値の間で読み替えをすることは、シネクドキそのものである。メタファーが、異なるスペース間のことであることは、容易に理解出来ることだろう。

さらにここで、種や役割において、クラスと抽象的個体を峻別することが意味を持ってくる。クラスはシネクドキに、抽象的個体はメトニミーになる。種や役割において、クラスと個物を混同している限りは、このことは見えてこない。


ウナギ文のことを考えようと思って、この今田氏の文章を読んだときに、メトニミーのことは随所で触れてあるのに、シネクドキについてはほんの1ヶ所だけで、不思議に思ったものだった。実は、役割と値として論じられているところを、シネクドキとして読み替えるべきだったのだ。

シネクドキは、シンボルや概念などの階層性として、あまりにも当たり前すぎて、見えなくなっている。一方、メトニミーを見極めるためには、個物の関係であることを識別しなければならない。