Simpson の隣接関係と「XはYがZだ]

ほぼ一年ほど前に、「G.G. Simpson と レトリック - ebikusuの博物誌」の中で、association by contiguity ということで、Simpson のいう隣接関係について触れた。その個所の英文は、以下のようなものである。

... the relationship between a plant and the soil in which it grows, between a rabbit and the fox that pursues it, between the separate organs that compose an organism, among all the trees of a forest, or among all the descendants of a given population.

この例を示したときには、a single Gestaltを構成するような隣接関係なのだから、メトニミーとして表現できるものだと思って、一生懸命にメトニミーとして言い表せないかと考えたりした。

今になって思えば、隣接関係のすべてがメトニミーとして表現されるわけでもないだろうし、またメトニミーが周知のものとなるためには、文脈や周辺の知識が必要なのだろう。つまり、「赤ずきん」は女の子が身につけているものであり、その女の子自体を指すこともあることが認識されるためには、その物語の知識が不可欠なのだろう。

ところが、前回まで述べてきた「象は鼻が長い」式の文章は、この関係を表現するのに適しているように思われる。上の Simpson の例を、具体例に当てはめて書き下してみると、

  • あの植物はその周りの土が育んでいる。
  • あのウサギはキツネが追いかけている。
  • あのカニは、胃が非常に大きくて、それに続く腸が非常に細くて貧弱である。
  • あの森は、ヒノキが尾根に生えて、スギが斜面に生えている。
  • アフリカで生じたヒトの集団は、子孫が地球全体に広がった。

英語では、a plant や a rabbit のような不定冠詞がつく単語が参照点になって、その単語と隣接関係となっている別の単語(the が付いている)とで、なんらかの関係を示しているようだ。参照点構造などというのは、英語にぴったりくるように考え出されたものなのだろうから、当然のことかも知れない。

英語と日本語の感覚の違いについてわかるほどに、英語に堪能なわけではないが、英語の方は構文として関係そのものを表現しているのに対して、日本語の方は、文章全体で具体的事象に言及することによって、関係を表現しているように思える。



このことで思い出すのは、昔、ある高名な生態学者が、「日本語が、“関係”を表現するのに適しているのではないか」といった類いのことを言っていたことである。また、仏教をはじめとして、あらゆるものがつながっている・関係をもっている、といった発想は、日本人には馴染み深いことだっただろう。そして、ここで重要なことは、このような“関係”が、隣接関係であることである。古い時代から、日本人は、隣接関係やメトニミーに敏感であったに違いない。さらに、メトニミーからシネクドキを分離することについて、日本の人たちが率先していることについても、日本語の特性が影響しているのかも知れない。


(2010/03/09 追記):
上の訳文では、「〜は〜が〜だ」の構文にこだわったから、不定冠詞の部分がうまく表現できなかった。三上章がいう「無題化」によって、「は」を消して、kotoどもを取り出してみれば、さらに具体的関係が見えてくるようになるだろうか。

  • ある植物その周りの土が育んでいる koto
  • あるウサギキツネが追いかけている koto
  • あるカニ、非常に大きい胃があり、非常に細くて貧弱な腸がそれに続く koto
  • ある森、ヒノキが尾根に生えて、スギが斜面に生えている koto
  • アフリカで生じたあるヒト集団子孫が地球全体に広がった koto