「象は鼻が長い」とメトニミー7

前回に、「XはYが」で、クラスと特定のものが入り混じっているときには、どうやら非対称性があるようだ、と述べた。それで、XとYのそれぞれについて、クラスと特定のものの組み合わせを列挙して考えてみよう。

クラス−クラス      魚は鯛がうまい
クラス−特定のもの    魚はこの鯛(明石で昨日釣ってきた)が最高だ
特定のもの−クラス    明石は魚がうまい
特定のもの−特定のもの  明石は彼が幼少期に住んだ。彼は明石が故郷だ

クラスと特定のものが入り混じっている場合には、どうやら「特定のもの−クラス」の順番が素直な配列のようだ。それが逆の「クラス−特定のもの」では、クラスの中で代表するものや一番のものを述べる文脈でないと成り立たないようで、「魚は」と述べた後に単純に「この鯛が」が来るだけでは、「あの鯛は」とか「そのマグロは」とか、対比する文章が必要となってくるのだろう。

さらに、XとYが組み合わさって、全体としてクラスを指しているか特定のものを指しているかについて、考えてみよう。「クラス−クラス」がクラスとメンバーの関係を、「特定のもの−特定のもの」が特定のもの同士の関係を指していることは明らかだろう。「クラス−特定のもの」でも、ある特定のものが「Zだ」ということを述べるのだから、特定のことを指しているのだろう。最後に、「特定のもの−クラス」の場合には、「明石の魚」で、クラスと思えるかも知れない。しかし、明石で水揚げされた魚でも、明石で売っている魚でも、とにかく明石という特定の場所と結びついた魚という意味だろうから、特定の魚のことを指していると思われる。

実は、このようなことを考え始めた出発点は、「クラス−クラス」である魚と鯛の関係は、包含関係であるから、順番を入れ替えることはできないが、「特定のものー特定のもの」である明石と彼の関係の場合は、隣接関係であり、適宜入れ替えることができるだろう、と考えたことだった。しかし、実際に並べ替えてみると、明石と彼との関係においてさえ、「明石の中の彼」と「彼にとっての明石」というのとでは意味も違っているから、順番の入れ替えだけでは済まないようである。しかし、いずれにしても、XとYを入れ替えることによって、なぜうまく行かないのかを考えることによって、いろいろな問題点が見えてきたように思われる。

このシリーズの最初のところで述べたように、「XはYがZだ」において、あらゆるXYZについて、多くの人が分析しているに違いないので、そのような煩雑な議論はまず避けて、XYの存在の意味や関係を考えることによって、見えてくることがあるだろうというのが、このシリーズの目的だった。

さらにもっと遡れば、メタファーやメトニミーなどのレトリックの元になっている人間の認識傾向が、“もの”を分類する際にも影響しているという指摘があったことを真に受けたから、このようなことを考え始めたことになる。しかし、XとYの二つのものがあるときに、常にメタファーやメトニミーの比喩になるわけではない。「XはYがZだ」もまた、二つのものの関係を見事に処理して、表現している実例だろう。しかし、メトニミーの元にある隣接関係と、シネクドキの元にある包摂関係を、明確に区別しているわけではないようだ。

それで、結局のところ、このあたりのことを解明するためには、「〜は」とか「〜が」とかの意味を、もっと理解しなければならないようだ。今こそ、「象は鼻が長い」に関して出版されている大量の本のうちから、いくつかでも読んでみようと思う。

また勉強が進めば、この問題にも触れてみたい。