「象は鼻が長い」とメトニミー6

「象は鼻が長い」で検索していたら、以下の学会の講演要旨が引っかかってきた。

日本言語学会第100回大会(1990)口頭発表要旨
「XはYがZ」文の幾つかの変種―‘再主題化’と分析されるものなど―
菊地 康人
短い文章なので、ぜひリンクを参照してください。


そこで、「XはYがZ]文の変種として、以下のような文章が掲げられているのだが、その元の文と変種を掲げると、

姉は趣味がテニスだ。
 → 趣味は姉がテニスで,妹がピアノだ。
三越のバーゲンは今日が最終日だ。
 → 今日は三越のバーゲンが最終日で,高島屋のバーゲンが初日だ。
 → (バーゲンは、今日は三越が最終日で,高島屋が初日だ。)
A教授は,書いた本がよく売れている。
 → 書いた本は,A教授がよく売れていて,B教授はさっぱり売れていない。

月水金の秘書は脚が綺麗だ。
 → 秘書は,月木金が脚が綺麗で,火木土が声が綺麗だ。
カキの料理は広島が本場だ。
 → (料理は)、カキは広島が本場で,フグは下関が本場だ。
こっちのパンはポチがかじった。
 → (パンは)、こっちはポチがかじって,そっちはミケがなめた。

(( )内はこのブログの筆者の補足)

後の3つの例は、「Xが「PのQ」という形をしていて,そのQが‘再主題化’され「QはPがYがZ」となったもの(CRT型。RT= Retopicalization)」なのだという。

実際の学会発表で、どのような説明がなされたのかわからないのだが、このブログのこれまでの説明との関連で考えてみたい。


この分析が興味深いのは、上の実例のほとんどで*1、元の文章では「Xは」に来る単語が、特定の人やものを指しているのに、その順番の入れ替えた変種の文章は、「Xは」に来ている単語が、一般のもの(クラスや集合)を指していることである。そして、これらの変種が、対比文脈専用であることも、大いに興味を惹かれる。*2


このブログでは、これまで以下のようなことを述べて来た。「XはYが」の文章では、まず「Xは」でなんらかの話題を提示して、「Yが」でさらに話題を限定していくことになる。だから、「姉に関することで、趣味は、テニスだ」というように、話題が絞られていくことになる。一方、「AのB」という説明からは、「姉の趣味」で、「趣味」を「姉の」で限定していることになる。

いずれにしても、考えたいことは、ふたつの単語(対象)が、どのような存在であるか(特定のものか、クラスか)、またどのような関係にあるか(隣接関係にあるか、包摂関係にあるか)である。


そのようなことを考えるために、このシリーズの記事の4回目で、XとYが隣接関係であるときに、「魚は明石がうまい」や、「本はあの学者が多い」、「娘さんは田中さんが美しい」、「鼻は象が長い」などと、XとYを入れ替えてみた。包摂関係ではなく、隣接関係であれば、XとYは入れ替え可能だと考えたからである。しかし同時に、入れ替えた場合には、どこか言葉足らずの違和感が残って、なんらかの文脈が必要となるだろうとも述べた。

しかし、後になってみれば、そのときには「XはYがZだ]での述語のZの部分のことを考えていなかった。XとYを入れ替えれば、「Xが」の部分がZとうまくつながるかが問題となる。上の入れ替えた文章が、なんとなく言葉や文脈の不足を感じながらも意味が読み取れるのは、「Yは」にくる単語が、引き伸ばされたかたちで、「Xが」の単語へ影響を及ぼしているからだと思われる。つまり、「魚は、明石(の魚)がうまい」などと。

一方、上の菊地の例文では、そのような述語のZの部分が、XでもYでも受けられるような述語が巧みに選ばれている。しかし、それでも、なお言葉が足りないような感じがして、それを対比の文章で補うことになるのだろう。

「明石の魚」、「あの学者の本」、「田中さんの娘」、「姉の趣味」、などとは言えるが、その逆の「魚の明石」などとは言いにくいようだ。それで、「魚の泉佐野雑賀崎」、「肉の神戸」などと対比して、文脈を補うことになる。

この言いにくい組み合わせは、最初にも述べたように、前に一般のもの(クラス)が来て、後ろに特定のものが来る組み合わせのようだ。

もちろん、「魚は明石が」と言えないわけではない、「城は姫路が」、「カキ料理は広島が」などと言うように。そして、このことは、シネクドキの一種である換称(antonomasia)を思い起こさせる。太閤は秀吉が、祖師は日蓮が、天才物理学者はアインシュタインが、といった例である。つまり、類を、ある特定の種で言い換えることである。そのためには、ある特定のものが、その類を代表するほどのものでなければならないのだろう。


いずれにしても、「XはYが」で、クラスと個物が入り混じっているときには、どうやら非対称性があるようだ。次は、このことについて、考えてみたい。

*1:実は、上の例文の中には例外があって、「三越のバーゲンは今日が最終日だ」は、「三越のバーゲン」も「今日」も特定のものである。もちろん、「三越のバーゲン」を何度もある一般のものと考えることもできるが、「今日」とむすびつくことで、「今日」を含むような“特定”のバーゲンになっている。そして、興味深いことには、「三越のバーゲンは今日が最終日だ」としようが、「今日は三越のバーゲンが最終日だ」としようが、ほとんど意味が変わらないことである。つまり、「今日」と「三越のバーゲン」が対等に並んでいるということだろう。

*2:さらに例外があって、「カキの料理は広島が本場だ」では、カキ料理は一般のものである。しかし、この文章自体、既に“ひねり”が入っていて、「明石は魚がうまい」と同様の「広島はカキ料理がうまい」ならば“素直”なのに、「『カキ料理の本場』の広島」から、カキ料理を取り出して話題化することで、複雑なものになっている。