熊楠の曼荼羅とプチプチシート

家でコーヒーを飲んでいて、お菓子を包んであったプチプチシートを、妻がつぶしているのを見ていると、伝染したかのように、つぶしたくなってくる。この一連の過程は、前に掲げた熊楠の曼荼羅に対応するのではないかと思えてきた。




私たちの前に、たまたまプチプチシートがあって、それを押したときに、プチッとひとつの気泡が破裂するのは、単純な因果関係による「縁」だろう。そこから止まらなくなって、ある範囲内のすべての気泡をつぶすというのは、「起」だろう。

この過程は、プチプチシートという「物」があって、そこに働きかける「心」があって、そこから、ひと通りの気泡をつぶすという一連の「事」が生じる。このような「事」の連なりが、「プチプチ」とでも呼ばれる行為の「名」であろう。このような「名」ができてしまうと、今度は、「プチプチ」という「名」を聞いただけで、一連の行動が目に浮かぶし、プチプチシートを目にすれば、つぶす行動をせずにはいられなくなる。これが「印」だろう。

プチプチシートは、本来は緩衝材であって、「プチプチ」をするためのものではなかったはずである。ところが、文化というほどの大げさなものではないが、いったん確立してしまうと、人を支配するようになる。このことが、熊楠のいう「大発明をやらかした」ということで、「名」と「印」が実在するということの意味ではないか。


熊楠の曼荼羅は、真言僧の土宜法竜宛の手紙で示されたものだから、仏教の文脈にからめて、妙に深遠なものとして解釈される。しかし、「物、心、事、名、印、縁起」などを、具体的な文脈に当てはめてみれば、以上のような単純なことで解釈できるように思える。