パースの記号論による南方曼荼羅の読み解き

前回、熊楠とパースとの関連について書いたが、鶴見和子のような有名人なら、その関連性を指摘するだけでインパクトもあるのだろうが、私がこのブログで書いたところで、単なる思いつきを述べているように思われるだけだろうから、そのとっかかりだけでも示しておこう。

このブログでパースについて書いたことは、「パース ebikusu」で検索してもらえば、いろいろなことで言及していることがわかるだろう。これまで言葉やレトリックについて述べたことは、南方熊楠の比較の論理、すなわち世界各地の説話やいろいろな事項を比較し並べ立てることにつながってくる。


それで、熊楠であるが、「南方曼荼羅」や「事の学」ということで、いろいろな人がいろいろな解釈をしているが、ここでは以下の図を取り上げたい。




この中の「物−事−心」の三項が、パースの「対象−記号−解釈項」に対応しているというのが、私の解釈である。以前に、パースの三項図式を図示したことがあるが、物が対象(object)であるとして、事が記号(sign)であり、心の中で考えることが解釈内容や意味(interpretant)に対応している。interpretant はまた記号になるから、その記号の連鎖が、心のなかであれこれ考えていることの実質的内容となる。

つまり事の連鎖は、記号の連鎖ということになる。そこに、熊楠は「名」と「印」を付け加える。「名」はパースの記号分類でいうならば、名辞的・象徴記号・(法則記号)(Rhematic Symbol Legisign: 331)に対応するのではないか。「印」はそこから出てくる具体化されたイメージだとすれば、「名」と「印」は、タイプとトークン、あるいは法則記号とレプリカに対応するものと思える。もちろん、このあたりの用語に仏教的な影響や背景があるのだとしたら、さらに検討の余地はある。
(2018/07/25 注記:「印」は「心」に生じるだけで「物」ではないので、「物」として具体化される前に生じるもの(性質や意味など)、つまり「名」という「記号」に対する「解釈項」であると、今は考えている。また「名」については、パースのいう名辞的・象徴記号(Rhematic Symbol)だけでなく、命題的・象徴記号(Dicent Symbol)、論証(Argument)などの、すべての象徴記号(Symbol)を含むものと考えている)


因果と縁起について、熊楠は以下の図も掲げる。




これらの関係は、パースのいう第二性(第二次性 Secondness)に対応している。つまり、二者の出会いであり、互いに原因となり、それぞれに結果が生じている。通常の因果関係は、名辞的・指標的・法則記号(Rhematic Indexical Legisign: 321)である。単純な「縁」というものは、偶然の出会いであり、単一の隣接関係であると考えれば、名辞的・指標的・単一記号(Rhematic Indexical Sinsign: 221)に対応するものだろう。「縁」が「起」となるのは、九鬼周造の「運命」を思い浮かばせるが、時期的には熊楠が先取りしていることになるだろう。二者の出会い(縁)は、無数に生じているものだろうが、そこに必然性を見出すものは、さらなる二者の出会いである。熊楠の例では、「熊楠、那智山にのぼり小学教員にあう」ことが最初の隣接関係であり、「その人と話して…」、「明日尋ぬる」というのが、新たな隣接関係の連なりとなっている。

このような隣接関係は、必ずしも必然法則(因果法則)に当てはまるものではないことから、鶴見和子のいう「熊楠が偶然を強調した」ことにつながってくる。そして、パースもまた偶然を強調したのだが、パースの偶然論(tychism)は、さらに包括的な世界観(synechism)に基づくものだろう。これすらも、胎蔵界大日如来の論理に対応しているのだろうか…。


いずれにしても、パースの記号論に、熊楠の曼荼羅論は、見事に対応している。もちろん、わざわざパースの記号論などを適用しなくても、熊楠の文脈に従って読み解けばよいことだろう。しかし、多くの南方曼荼羅の解釈は、熊楠の思想の深遠さを強調するあまり、妙に神秘的で深読みし過ぎのものになっているように思える。


知りたいことは、熊楠とパースの類似性がどこから生じたかである。熊楠の「縁起」などという発想は、日本人ならば、非常に納得しやすい論理だと思える。むしろ、パースが西洋人でありながら、偶然を強調したことの背景が、注目されるべきなのかも知れない。もしも、両者の“共通の祖先”のような思想家が特定できるのならば、とっかかりが見えてくるかも知れない。
  

[2018/07/25 追記]南方熊楠の研究者が、この辺りの文章を読まれれば、誰が書いた文章であるかは想像がつくものと思う。このブログは匿名で書いてはいるが、特に秘密にしていた訳ではない。このブログの管理人が、2017年夏の熊楠研究会で発表したこと、2018年の『熊楠研究』12号の論文で書いたことと、大きく重なっている。2018年の論文を読むときに、エッセンスが書かれたものとして読んでもらっても構わないと思う。根本の発想は、この時期には既に思い浮かんでいたのだが、それを発表する手段や手順が思い浮かばなかった。この3年くらいの間に、多少なりとも考えが違っている部分もあり、それらは注釈を付けるなどした。

南方熊楠とパース

なんとも長い間、ブログを書かなかった。前に書いたのが、8月のお盆の頃だったのが、もうすぐお正月を迎える時期になってしまっている。11月頃から、南方熊楠のことを考える機会があって、前回も南方熊楠のことを書いているので、そこから話をつなげたい。


このところ、南方熊楠とパースとのつながりが気になっている。このブログでは、パースの記号論について、これまで何度も触れて来たが、熊楠とパースとの関連については、前回、明恵の夢を分析することで、パースの記号論のことに軽く言及した程度であった。

両人の経歴を多少なりとも知っている人ならば、熊楠がアメリカに滞在していた期間(1887-1892年)には、パースも存命であったことから、同じ時代の空気を吸っていたことに気がつくだろう。熊楠がパースの著作を読んでいたかどうかは、気になるところだが、少なくとも蔵書などのリストにはないようだ。

以前、鶴見和子の『南方熊楠』という本を読んだときに、熊楠には、パースへの言及はないとのことを、わざわざ述べていた。熊楠が、土宜法龍への手紙の中で、数学者のブールやド・モーガンのことに触れているのを見たときには、少し驚いたものだが、鶴見和子もそのことから、パースについて触れている(p218)。

鶴見和子の弟の鶴見俊輔は、『アメリカ哲学』という著書もあるから、鶴見和子自身もパースには親しみがあったのだろうか。しかし、熊楠との直接的なつながりは見いだせなかったらしい。ついでに、パースを日本へ紹介することでの草分けでもあった上山春平は、熊楠のことも研究していたが、パースと熊楠とのつながりを特に指摘してはいないようだ。

ところが、ネットで「熊楠 パース」で検索をしてみると、鶴見和子は、後になってからも、熊楠とパースの関係を、繰り返し述べているようだ。例えば、この新聞のコラムの文章では、「南方曼荼羅」に結びつけて、パースが偶然性を強調したことを取り上げている。さらに、『南方熊楠・萃点の思想』という本では、何度もパースのことに触れている。

ところが、『萃点の思想』の本の中で、パースに言及している部分を拾い読みしてみると、やはりパースとの直接的なつながりは見いだせていないようで、単なる同時代性と、せいぜいのところパースが偶然性を強調したのだということで、熊楠との接点を見出そうとしているようだ。

鶴見和子がパースのことで繰り返し言及しているのは、Monist 誌に1892年に発表したという "The Doctrine of Necessity Examined" という論文についてなのだが、引用の各所で、この論文の題名を間違えている。彼女が、パースの偶然論(tychism)を理解していたのか、大いに怪しく思えてくる。いずれにしても、鶴見和子の思い入れを別にすれば、熊楠とパースとが直接的につながるような証拠はないようだ。

この『萃点の思想』という本は、よく読まれたようで、ネット上でも、パースとの関連を紹介した記事がいくつか見つかる。ところが、real chance を 実的偶然性と書いているものがあったりして、鶴見和子の言うことを、鵜呑みにしているだけで、まじめに検証されているようには思えない。



鶴見和子とは別の方向で、熊楠とパースの関係を指摘したものに、安藤礼二の『場所と産霊』という本がある。この本についてもひと通りは読んだのだが、19世紀から20世紀かけての思想家について、まばゆいばかりの相関図が提示されることに、まず圧倒される。そのような相関図の中に、熊楠もパースも位置づけられるのだが、馴染みのない思想家も多く出てきて、全体像も個別の関係も、なかなか理解できるものではない。

熊楠との関連では、熊楠と鈴木大拙の間に手紙のやりとりがあったらしい。さらに、大拙アメリカでケーラスとつながり。ケーラスは Monist 誌を主宰していて、パースにつながる。また、大拙はジェイムズにつながり、ジェイムズはパースにつながる。しかし、熊楠とパースがなんらかの直接的につながりを持っていたことは、読み取れなかった。

思想家と思想家のつながりは、直接的な交遊があったかどうかだけでなく、著作によるつながりや、なんらかの思想や考え方を共有していたかなど、いろいろなレベルで考えられることだろう。ところが、上の安藤礼二の本は、壮大な人と人とのつながりが挙げられるのだが、肝心の思想的な接点が見えてこない。


私が、熊楠とパースを結びつけたいと思うのは、熊楠の「事の学」や「南方曼荼羅」がパースの記号論で読み解けるように思うからである。パースが熊楠から影響を受けることは想像しにくいから、知りたいことは、熊楠が、パースの著作なりプラグマティズムなり、当時のアメリカの思想的な「空気」から、どのような影響を受けたかである。

パースにしろ熊楠にしろ、片田舎に住んで、まったくの孤高の思想家というイメージで捉えられる。しかも、両者の研究分野はほとんど重ならない。それなのに、発想がどこか似通っているように思える。そんなところを解きほぐすことが出来ればと思う。

明恵と南方熊楠

前回の記事で、「明恵の思い」から「蘇婆河 − 海 − 鷹島 ー 石」という物の連なりを考えたときに、華厳経のことを意識していた。

私の仏教の知識は、実に怪しげなもので、なにかを理解しているなどとは、決して思ってはいないのだが、それでも、華厳経において、物の関係性(縁起)を強調しているらしいことや、毘盧舎那仏大日如来)を中心とした世界の構造など、わからないなりに興味を惹かれてきた。

このところの明恵上人の話でも、明恵自身が華厳宗中興の祖と称されることから、明恵について語られることと、華厳経との関連について、多少なりとも理解したいと思っていた。

それから、明恵について検索をしていると、明恵が夢について記録していて、それについて、河合隼雄が分析をしているらしい。私は、夢について深く考えたことはないが、メタファーとメトニミー、あるいはパースの記号論などで、言葉について考えてきたことを踏まえて、夢についても考えてみたい思っていた。


そうすると、まさに同じようなことをやっているのが、南方熊楠だと思えてくる。実のところ、私の華厳経に対する興味は、南方熊楠から、発している。南方熊楠の「事の世界」が、華厳経につながるものだと、どこかで読んだことがある。エコロジーという言葉だけでなく、あらゆる生き物のつながりを強調したことについて、華厳経の影響を受けているのだとしたら、その根源的な発想について知りたく思う。また最近になって、熊楠の夢について論じた本も出ている。


ここまで考えて、明恵と熊楠の思想を関連づけて論じた人は過去にいなかったのだろうか。あるいは、南方熊楠は、同じ和歌山県出身の明恵をどの程度意識していたのだろうか。そんなことが気になってきた。


それで、「南方熊楠 明恵」で検索をしてみると、今年の初めに、「明恵と熊楠」というテーマで、公開講座があったらしい。中沢新一が講演し、その後に「夢を生きること」をテーマに河合俊雄と中沢との対談があったらしい。河合俊雄は、河合隼雄の長男で、ユング心理学研究者らしい。


まさに私が考え、たどりついたことと、同じような視点で論じているようだ。もちろん、私はもっと具体的なつながりが知りたいのだが、中沢の議論は表面上の類似性を指摘して終わっているようだ。それでも、中沢以前には熊楠と明恵を結びつける話はほとんどないようで、熊楠の専門家なのだから、当然だといえば、それまでであるが、そのようなテーマを見つけ出す感覚に、少し感心させられた。

さらに、この講演で驚かされたのは、熊楠と明恵を直接的に結びつけるものとして、土宜法龍が挙げられていることである。熊楠と法龍の交流は、熊楠をかじったことのある人ならば誰でも知っていることだろうが、法龍が高山寺の住職をやっていたというのは、ちょっと盲点であった。熊楠から法龍に宛てた書簡が高山寺に残っているではないかと言われそうだが、熊楠のお墓のある田辺市高山寺と混同していた。

だから、前回の記事で、高山寺にある明恵鷹島石のことを書きながら、熊楠につながるなどとは思ってもみなかった。

そうすると、土宜法龍や南方熊楠にとって、明恵はどのような存在だったのかが気になってくる。土宜法龍は、鷹島石を手にとって見たことがあるのだろうか? 熊楠との往復書簡の中で、明恵のことが話題になったことはあるのだろうか? あるいは、熊楠は、明恵のことをどのように意識していたのだろうか?

差し当たって、南方熊楠全集の索引で、「明恵」を繰ってみると、言及している箇所はあるのだが、明恵の思想にまで触れたものはないようだ。


以上のようなとっかかりの見取り図(つながりの図式)を考えておいて、今後は、つながりの具体的な項目やつながりの内容を埋めて行きたい。


そんなことを思っていると、まさにシンクロニシティで、京都で10月に「国宝 鳥獣戯画高山寺」展が開かれるらしい。おそらく、鳥獣戯画の方がメインで、そちらの方ばかり注目されるので、あまり興味を惹かれなかったのだが、明恵のことも展示されるらしい。鷹島石が展示されるかどうかは、ネットの情報からだけではわからないが、開催期間が近づいてくれば、またわかるかも知れない。

鷹島の石

鷹島の石に興味をもったことの発端は、妻の高校時代の友人が、和歌山県湯浅町に住んでいて、今年の春の花見の時期に訪ねたときに、明恵上人の「われ去りて のちにしのばむ人なくは 飛びて帰りね鷹島の石」という歌を教えてもらったことである。

歌の意味を改めて確認しようと、インターネットなどを検索していると、和歌山県立博物館のニュースのページがあり、それによると、「釈迦如来を父と仰いで思慕した明恵は、はるかインドとつながる海の水に洗われた鷹島の石を、釈迦の形見と思って拾い座右に置いたのでした。現在高山寺に伝わるその鷹島石に明恵は、上の和歌を記していた」のだという。

そのページには、博物館の関係者が鷹島を訪れたときに拾って来た「鷹島の石」の写真も載っている。その写真を見ると、いろいろな種類の石が混じっているようだ。そうすると、明恵上人が実際に高山寺で座右に置いていた石がどういう種類の石であり、また、周辺の地層とどのように関連しているのか、急に興味が湧いてきた。

それというのも、この湯浅周辺の地層というのは、古い化石が出たり、非常に込み入っているというのを聞いたことがある。実際に調べてみると、鷹島の地層には、白亜紀の地層に黒瀬川帯の岩石がレンズ状に入り込んでいるらしい。そして、黒瀬川帯は、シルル紀デボン紀ペルム紀などの岩石を含んでいて、和歌山県で一番古い岩石が見られるところだという。このあたりの地質図は、「アーバンクボタ:No.38 紀伊半島の地質と温泉」や、和歌山市立こども科学館「デジタル特別展 わかやまの岩石」のところで見ることが出来る。さらに、「日本の地質 6:近畿地方」(1987):共立出版も参照した。


そうすると、明恵上人の鷹島の石が地質学的にどのような岩石に当たるのか、鑑別できるのではないか。もしも、偶然にも黒瀬川帯の特定の岩石だったら、それもまた興味深いのではないか。そのようなことは、既に誰かが調べているのではないかと、インターネットで検索をしてみたが、歴史学と地学では、やる人も違っていて、それぞれの興味もズレているのか、そのような議論はなかなか見つからなかった。

それで、鷹島へ渡るのは難しいとしても、その対岸の名南風鼻にでも、石を拾いに行こうかと、あれこれ勉強していたら、妻の友人のご家族のご尽力で、鷹島へ渡れるように手配して頂いた。鷹島自体は、許可無しには上陸出来ないらしい。特別なツテのお陰で、上陸が可能となった。それで、その友人夫婦に、また別の友人夫婦、それに我が家を加えた中年夫婦3組での、“大冒険旅行”となった。素人ばかりで、岩石調査というのもおこがましいが、島へ上陸したささやかな“観察日記”である。

事前に地質図を調べたところ、島の大部分は下部白亜系の秩父西広層が占めているのだが、島の東側で、南北のそれぞれで岬のように突出した部分に、黒瀬川帯の岩体があるらしい。船が着いたのは、島の東側の浜の南端にコンクリートの桟橋のあるところだった。そこはちょうど、トーナル岩が壁のようになっているところらしい。そこから、島の東側のビーチのようになったところを、北側の岩礁の出っ張りの部分(赤い岩のあるところ)まで行って、戻って来た。






上の経路を歩いて、拾って帰ったものが以下の写真である。海岸にある岩石の種類を網羅しているとはとても思えないが、目についたものを思いつきで拾ったにしては、7〜9種程度にはなるようだ。



ずらっと並べてみても、素人の悲しさで、どの石がどの岩石だと同定できるわけもないのだが、上に書いた参考書やいろいろなインターネットのサイトなどを参照しながら、わかる範囲で書いてみますので、どなたかこの地域の岩石に詳しい方のご教示を待っています。

全体の写真で、右上の4個は、砂岩だと思える。茶色くなっているのは、鉄などが後から沈着したのだろうか。秩父帯・西広層のアルコーズ砂岩だとすると、この地方の陶磁器である南紀男山焼の原料に使われたものと同じになる。




ところが、上のような石をみると自信がなくなってくる。砂岩が堆積するときに級化して粒度が分離したようにも思えるし、結晶らしきものにも見えるので、火山岩が冷えるとき、部分の違いを反映したものなのだろうか。



そうすると、右下に置いた上の石も、火成岩なのか、堆積岩なのか、自信がなくなってくる。


その他の石は、まったく見当がつかないのだが、赤石、緑石、黒石、トーナル岩または閃緑岩、それに化石のような石、ということで並べている。








以上のような石を拾ってみて、明恵鷹島の石は、どのような石なのかということを想像してみたい。この鷹島の石のことを調べていることを話したときに、湯浅町の友人夫妻から、和歌山県立博物館であった明恵上人に関する特別展の解説書を見せていただいた。そこに「鷹島石」と「蘇婆石」の写真が載っている。明恵鷹島で拾って帰った二つの石のうち、大きい方が鷹島石で、小さい方が蘇婆石と呼ばれるらしい。蘇婆石というのは、釈迦の遺跡が多くあるという蘇婆河の水に、鷹島の海辺の水が通じていることから、名付けられたらしい。その解説書からスキャンしたと思われる鷹島石の写真は、こちらのページでも見られる。

鷹島石は、下部が白っぽい色をしていることから、砂岩のように思える。しかし、実物を間近に見ているわけではないので、細部のことがよくわからない。上部が黒っぽい色をしていて、墨でも塗られて(上の和歌を書き付けた墨痕もあるらしい)いるようにも見える。また全体に光沢があって、磨かれたり、なにかを塗っているようにも思える。

蘇婆石の方は、色が黒いので、上の緑の石か、黒い石のように思えるが、これも光沢があって、よく磨かれているようで、あまりよくわからない。


岩石の知識もロクロクない人間が、一度鷹島へ行ったところで、「鷹島の石」が一気に解明されるわけもないのだが、現地を見たことで、断片的な情報が少しはつながってきた。また機会を見つけて、名南風鼻などの周辺の地点にも行ってみたい。

最近、和歌山県ではジオパークの指定を受けるために、和歌山県南部で地質の見学会を何度も催しているようだが、この地域でも開催してくれないかなあと思う。以前、あるジオサイト見学会で教えていただいたY先生は、この地域の地層がまさにご専門のようだ。紀伊半島の地質の全体像を理解するためには、この地域を理解することも必要なことだろう。


湯浅へ花見に行ったことから、明恵上人のこと、鷹島の石へと話が広がって行ったことに、なにか運命的なものを感じる。10年くらい前に、私が初めて湯浅湾を車で通ったときに、栖原の海岸まで来て、ここが明恵上人と関係する場所かと、記憶に留めたことがあった。さらに、沖に浮かんでいる島の風景も、記憶の片隅に残っていた。まさかその島へ渡る機会が巡ってこようとは思ってもいなかった。仏教でいう「縁」や「因縁」が、このようなものどうかわからないが、物事のつながりや関係性をまさしく実感している。


(2014/07/26 追記):
鷹島の海岸で、ヤシの実を見つけた。和歌山県南部の海岸を歩いていて、ヤシの実を見つけることは、それほど珍しいことでもないので、この鷹島まで外洋水が入り込んでいるのだという程度にしか、気に留めなかった。しかし、よく考えてみれば、海を介してインドまでつながっていると考えていた明恵上人のことを思うならば、このヤシの実は、そのような明恵の思いを象徴するものだろう。持ち帰ればよかったと、少し後悔している。






(2014/08/17 追記):明恵の思いと、鷹島のヤシの実:記号論的分析

上の追記で、「明恵の思い」と、鷹島の海岸に漂着した「ヤシの実」に、なんらかのつながりがあることを述べたつもりであった。書いた後で、「明恵の思いを象徴するもの」という表現に少し引っかかった。

このところ、このブログでは、言葉の議論を取り扱っていないが、「ヤシの実」と「明恵の思い」との関係を、もう少し分析してみたい。


「象徴」という単語を辞書で調べてみると、「あるものと関わる別の物を指示する作用」とか、「単に抽象観念を指示するだけでなく、それ自身の固有の形象的な価値の中に、全体的なイメージを凝縮し具象化することによって、その表徴となるものを指す」とかの意味が示されている。たしかに、私たちが鷹島で見た「ヤシの実」は、「明恵の思い」を具象的に指示しているように思えるから、単語の使い方としては、間違ってはいないようだ。


鷹島の海が、釈迦のいたインドの蘇婆河へつながっているなどという「明恵の思い」は、一見すると、明恵が頭の中で思い浮かべたことに過ぎないと思える。でも、よくよく考えて見れば、海がつながって一体であることは、当時においても事実として知られていただろう。実際に、海を介した人のつながりもあったのだろう。だからこそ、インドを訪ねたい思いを抱きながら、鷹島の海を眺めていたことになる。

そう考えると、明恵にとって、釈迦との一体感は海を介して具体化されていたことになる。そして、その海の水に洗われる「鷹島の石」は、その一部分であり、全体に対する部分としてのメトニミーだろう。つまり、「蘇婆河 − 海 − 鷹島 ー 石」という物の連なり(隣接関係)によって、全体を構成していたことになる。パースの用語では、石は、インデックスということになる。それで、京都に移って以降、海とのつながりが切れてしまったにしても、鷹島で拾って帰った石の一つを、「鷹島石」として眺めることで、釈迦にまつわる隣接関係を確認していたのだろう。

私たちが鷹島の海岸で拾って来た石も、「鷹島石」と同じく鷹島の海岸にあったということでは、「鷹島石」のインデックスに連なることも可能だろう。この鷹島の石のことがなければ、蘇婆河などいう名称を知ることもなかっただろうから。


一方で、「ヤシの実」には、もう少し違った意味があるように思える。海の流れに乗って、実際に動いてきたという意味も含んでいる。もちろん、ヤシの実が、「名も知らぬ遠き島より」海流によって運ばれて来るという知識がなければ、このような解釈は出来ないだろうが、いずれにしても、海岸に漂着したヤシの実を見るときに、単なる木の実ではなく、はるか彼方から流れ着いたものとして、ヤシの実が特別な意味合いを持つのだろう。

このようなヤシの実にまつわる発想と、明恵が考えていたインドへと連なる思いを、同一視することは、アナロジーであり、メタファーの一種(私のメタファーの分類では、Metaphor 2)とみなせる。



しかし、話はそれだけではない。単純に、海は一体だということで、「明恵の思い」と「ヤシの実」一般を、同一視してみたところで、実はつまらないものだろう。やはり、鷹島の海岸に漂着したヤシの実であったからこそ、意味があるのだろう。

明恵の思い」も「ヤシの実」の話も、それぞれ独立の話しである。おそらく、明恵の時代には、「ヤシの実」についての話は知られていなかったのではないか。そんなまったくつながりのなかった話が、鷹島の海岸に漂着したひとつのヤシの実によって、結びついたことになる。



(2014/08/17 追記):先日、JR きのくに線を移動していたら、広川ビーチ駅の少し南のところで、なんと鷹島が見えるではないか。この経路は、これまでにも何度も通ったことがあるが、意識したことはなかった。今後、この経路を通るときには、鷹島から名南風鼻にかけての風景を意識せずには通過できないだろう。

ムラサキシジミ

このチョウは、数日前に、ムクゲの植え込みのところを飛んでいるのを見つけた。



(2014/07/17 撮影)

飛んでいるときには、翅の青い色が非常に印象的だったが、とまったものでは、翅は茶色っぽい色で、それでも特徴的な模様なので、たぶん簡単に同定出来るものと思えた。

いつものとおり、福光村昆虫記で調べてみたが、それらしきものに行き当たらずで、岐阜大学教育学部のページで見ると、翅の裏の模様からすると、ムラサキシジミが似ているように思える。しかし、模様のパターンは、我が家のものの方が明瞭なようで、羽化して時間が経っていないものだったのかも知れない。ムラサキシジミで画像検索をしてみると、このページのものとよく一致するようだ。

多くのページでは、翅の表が美しいことを強調したり、近縁種のルーミスシジミやムラサキツバメなどとの区別点を強調したりすることになって、翅の裏側の地味な模様は、意外と掲載されていないようだ。

幼虫の食草は、アラカシやブナ、コナラなどということだが、我が家の周辺では、住宅地の背後の山には生えているのだろうが、住宅地内の個々の家の庭にはそれほど植わってはいないと思える。それでも、我が家の庭木が、少しは伸びて来たので、森だと思って立ち寄ってくれたのだろうか。

ルーミスシジミという名前は、畏友のUさんから何度か聞いたことがあるが、私には縁のないチョウのように思っていた。これで少しは親しいイメージを持つことができるだろう。

ムクドリ

一昨日、久しぶりに書いたので、その勢いで、以前に写真に撮っていたものを掲げる。鳥については、識別は出来ていても、うまく写真に撮れなくて、残っていたもののひとつがムクドリだった。



(2014/06/19 撮影)

(2014/05/25 撮影)

我が家の庭に来るのは、年中ということではなく、ある特定の時期に来ているのだと思うが、どの季節なのか、あまり意識したことがなかった。このブログの文章を書くために調べてみると、Wikipediaムクドリの記述によれば、繁殖期は春から夏で、ヒナが巣立つと親子ともに集まって群れを形成するようになるそうだ。今回の撮影をしたものは、ちょうど繁殖時期から終わったところなのだろうか。電線に、何羽かが集まっていたように思う。

また、「雄は胸や腹・背が黒っぽく、雌は褐色に近い」ということで、上の写真でも二羽が一緒に止まっているが、写真からだけではよくわからない。次からは、雌雄の違いにも注目したい。


我が家を訪れてくれる鳥で取り上げたものは14種となった。これまでに、イソヒヨドリ、ウソ、カワラヒワ、キジ、キジバトジョウビタキ、スズメ、ツバメ、ハクセキレイハシボソガラスヒヨドリホオジロメジロを取り上げた。単に名前がわかるということだけでなく、出現時期にも注目していきたい。

ラミーカミキリ

前回ブログを書いたのが2月だから、4ヶ月間もブログを書くのから遠ざかっていたことになる。書くネタはいくつもあって、写真も撮ったりしていたのだが、いったん書かなくなってしまうと、なかなか書き始められないままで来ていた。昨日、ちょっと目立つカミキリを見つけたので、これを機会に書き始めたい。



(2014/06/28 撮影)

このカミキリは、ムクゲの花の中にいた。いつもの「福光村昆虫記」のカミキリムシのページを見ると、冒頭に出てくるラミーカミキリだと即座に同定できた。おそらく、これまでにも他の種類を探すときに、こういう模様をしたカミキリがいるのだと、見ていたものと思われる。

国立環境研究所の侵入生物DBによれば、この種類は、江戸時代の末期に、繊維作物ナンバンカラムシ(ラミー)とともに、持ち込まれたものらしい。この種類が広がっていく経過については、よく注目されて来たようで、私の住んでいる地方についても、いくつもの報告があるようだ。2000年代の後半に、広がったらしい。

我が家のムクゲの木は、私たちが住み始めた2007年より以前から植えられていたものだが、これまでこのラミーカミキリには気がつかなかった。特徴的な模様からして、目につけば見逃すことはないと思えるので、まだそれほど多くはないのかも知れない。ただ、今年の冬の間、ムクゲの剪定を少ししかしなかったので、かなり伸び放題になっていることから、カミキリが集まって来たのかも知れない。


ブログを書いていないと、庭の生物の観察も熱心でなくなるので、これからまた観察を再開していきたい。