鷹島の石

鷹島の石に興味をもったことの発端は、妻の高校時代の友人が、和歌山県湯浅町に住んでいて、今年の春の花見の時期に訪ねたときに、明恵上人の「われ去りて のちにしのばむ人なくは 飛びて帰りね鷹島の石」という歌を教えてもらったことである。

歌の意味を改めて確認しようと、インターネットなどを検索していると、和歌山県立博物館のニュースのページがあり、それによると、「釈迦如来を父と仰いで思慕した明恵は、はるかインドとつながる海の水に洗われた鷹島の石を、釈迦の形見と思って拾い座右に置いたのでした。現在高山寺に伝わるその鷹島石に明恵は、上の和歌を記していた」のだという。

そのページには、博物館の関係者が鷹島を訪れたときに拾って来た「鷹島の石」の写真も載っている。その写真を見ると、いろいろな種類の石が混じっているようだ。そうすると、明恵上人が実際に高山寺で座右に置いていた石がどういう種類の石であり、また、周辺の地層とどのように関連しているのか、急に興味が湧いてきた。

それというのも、この湯浅周辺の地層というのは、古い化石が出たり、非常に込み入っているというのを聞いたことがある。実際に調べてみると、鷹島の地層には、白亜紀の地層に黒瀬川帯の岩石がレンズ状に入り込んでいるらしい。そして、黒瀬川帯は、シルル紀デボン紀ペルム紀などの岩石を含んでいて、和歌山県で一番古い岩石が見られるところだという。このあたりの地質図は、「アーバンクボタ:No.38 紀伊半島の地質と温泉」や、和歌山市立こども科学館「デジタル特別展 わかやまの岩石」のところで見ることが出来る。さらに、「日本の地質 6:近畿地方」(1987):共立出版も参照した。


そうすると、明恵上人の鷹島の石が地質学的にどのような岩石に当たるのか、鑑別できるのではないか。もしも、偶然にも黒瀬川帯の特定の岩石だったら、それもまた興味深いのではないか。そのようなことは、既に誰かが調べているのではないかと、インターネットで検索をしてみたが、歴史学と地学では、やる人も違っていて、それぞれの興味もズレているのか、そのような議論はなかなか見つからなかった。

それで、鷹島へ渡るのは難しいとしても、その対岸の名南風鼻にでも、石を拾いに行こうかと、あれこれ勉強していたら、妻の友人のご家族のご尽力で、鷹島へ渡れるように手配して頂いた。鷹島自体は、許可無しには上陸出来ないらしい。特別なツテのお陰で、上陸が可能となった。それで、その友人夫婦に、また別の友人夫婦、それに我が家を加えた中年夫婦3組での、“大冒険旅行”となった。素人ばかりで、岩石調査というのもおこがましいが、島へ上陸したささやかな“観察日記”である。

事前に地質図を調べたところ、島の大部分は下部白亜系の秩父西広層が占めているのだが、島の東側で、南北のそれぞれで岬のように突出した部分に、黒瀬川帯の岩体があるらしい。船が着いたのは、島の東側の浜の南端にコンクリートの桟橋のあるところだった。そこはちょうど、トーナル岩が壁のようになっているところらしい。そこから、島の東側のビーチのようになったところを、北側の岩礁の出っ張りの部分(赤い岩のあるところ)まで行って、戻って来た。






上の経路を歩いて、拾って帰ったものが以下の写真である。海岸にある岩石の種類を網羅しているとはとても思えないが、目についたものを思いつきで拾ったにしては、7〜9種程度にはなるようだ。



ずらっと並べてみても、素人の悲しさで、どの石がどの岩石だと同定できるわけもないのだが、上に書いた参考書やいろいろなインターネットのサイトなどを参照しながら、わかる範囲で書いてみますので、どなたかこの地域の岩石に詳しい方のご教示を待っています。

全体の写真で、右上の4個は、砂岩だと思える。茶色くなっているのは、鉄などが後から沈着したのだろうか。秩父帯・西広層のアルコーズ砂岩だとすると、この地方の陶磁器である南紀男山焼の原料に使われたものと同じになる。




ところが、上のような石をみると自信がなくなってくる。砂岩が堆積するときに級化して粒度が分離したようにも思えるし、結晶らしきものにも見えるので、火山岩が冷えるとき、部分の違いを反映したものなのだろうか。



そうすると、右下に置いた上の石も、火成岩なのか、堆積岩なのか、自信がなくなってくる。


その他の石は、まったく見当がつかないのだが、赤石、緑石、黒石、トーナル岩または閃緑岩、それに化石のような石、ということで並べている。








以上のような石を拾ってみて、明恵鷹島の石は、どのような石なのかということを想像してみたい。この鷹島の石のことを調べていることを話したときに、湯浅町の友人夫妻から、和歌山県立博物館であった明恵上人に関する特別展の解説書を見せていただいた。そこに「鷹島石」と「蘇婆石」の写真が載っている。明恵鷹島で拾って帰った二つの石のうち、大きい方が鷹島石で、小さい方が蘇婆石と呼ばれるらしい。蘇婆石というのは、釈迦の遺跡が多くあるという蘇婆河の水に、鷹島の海辺の水が通じていることから、名付けられたらしい。その解説書からスキャンしたと思われる鷹島石の写真は、こちらのページでも見られる。

鷹島石は、下部が白っぽい色をしていることから、砂岩のように思える。しかし、実物を間近に見ているわけではないので、細部のことがよくわからない。上部が黒っぽい色をしていて、墨でも塗られて(上の和歌を書き付けた墨痕もあるらしい)いるようにも見える。また全体に光沢があって、磨かれたり、なにかを塗っているようにも思える。

蘇婆石の方は、色が黒いので、上の緑の石か、黒い石のように思えるが、これも光沢があって、よく磨かれているようで、あまりよくわからない。


岩石の知識もロクロクない人間が、一度鷹島へ行ったところで、「鷹島の石」が一気に解明されるわけもないのだが、現地を見たことで、断片的な情報が少しはつながってきた。また機会を見つけて、名南風鼻などの周辺の地点にも行ってみたい。

最近、和歌山県ではジオパークの指定を受けるために、和歌山県南部で地質の見学会を何度も催しているようだが、この地域でも開催してくれないかなあと思う。以前、あるジオサイト見学会で教えていただいたY先生は、この地域の地層がまさにご専門のようだ。紀伊半島の地質の全体像を理解するためには、この地域を理解することも必要なことだろう。


湯浅へ花見に行ったことから、明恵上人のこと、鷹島の石へと話が広がって行ったことに、なにか運命的なものを感じる。10年くらい前に、私が初めて湯浅湾を車で通ったときに、栖原の海岸まで来て、ここが明恵上人と関係する場所かと、記憶に留めたことがあった。さらに、沖に浮かんでいる島の風景も、記憶の片隅に残っていた。まさかその島へ渡る機会が巡ってこようとは思ってもいなかった。仏教でいう「縁」や「因縁」が、このようなものどうかわからないが、物事のつながりや関係性をまさしく実感している。


(2014/07/26 追記):
鷹島の海岸で、ヤシの実を見つけた。和歌山県南部の海岸を歩いていて、ヤシの実を見つけることは、それほど珍しいことでもないので、この鷹島まで外洋水が入り込んでいるのだという程度にしか、気に留めなかった。しかし、よく考えてみれば、海を介してインドまでつながっていると考えていた明恵上人のことを思うならば、このヤシの実は、そのような明恵の思いを象徴するものだろう。持ち帰ればよかったと、少し後悔している。






(2014/08/17 追記):明恵の思いと、鷹島のヤシの実:記号論的分析

上の追記で、「明恵の思い」と、鷹島の海岸に漂着した「ヤシの実」に、なんらかのつながりがあることを述べたつもりであった。書いた後で、「明恵の思いを象徴するもの」という表現に少し引っかかった。

このところ、このブログでは、言葉の議論を取り扱っていないが、「ヤシの実」と「明恵の思い」との関係を、もう少し分析してみたい。


「象徴」という単語を辞書で調べてみると、「あるものと関わる別の物を指示する作用」とか、「単に抽象観念を指示するだけでなく、それ自身の固有の形象的な価値の中に、全体的なイメージを凝縮し具象化することによって、その表徴となるものを指す」とかの意味が示されている。たしかに、私たちが鷹島で見た「ヤシの実」は、「明恵の思い」を具象的に指示しているように思えるから、単語の使い方としては、間違ってはいないようだ。


鷹島の海が、釈迦のいたインドの蘇婆河へつながっているなどという「明恵の思い」は、一見すると、明恵が頭の中で思い浮かべたことに過ぎないと思える。でも、よくよく考えて見れば、海がつながって一体であることは、当時においても事実として知られていただろう。実際に、海を介した人のつながりもあったのだろう。だからこそ、インドを訪ねたい思いを抱きながら、鷹島の海を眺めていたことになる。

そう考えると、明恵にとって、釈迦との一体感は海を介して具体化されていたことになる。そして、その海の水に洗われる「鷹島の石」は、その一部分であり、全体に対する部分としてのメトニミーだろう。つまり、「蘇婆河 − 海 − 鷹島 ー 石」という物の連なり(隣接関係)によって、全体を構成していたことになる。パースの用語では、石は、インデックスということになる。それで、京都に移って以降、海とのつながりが切れてしまったにしても、鷹島で拾って帰った石の一つを、「鷹島石」として眺めることで、釈迦にまつわる隣接関係を確認していたのだろう。

私たちが鷹島の海岸で拾って来た石も、「鷹島石」と同じく鷹島の海岸にあったということでは、「鷹島石」のインデックスに連なることも可能だろう。この鷹島の石のことがなければ、蘇婆河などいう名称を知ることもなかっただろうから。


一方で、「ヤシの実」には、もう少し違った意味があるように思える。海の流れに乗って、実際に動いてきたという意味も含んでいる。もちろん、ヤシの実が、「名も知らぬ遠き島より」海流によって運ばれて来るという知識がなければ、このような解釈は出来ないだろうが、いずれにしても、海岸に漂着したヤシの実を見るときに、単なる木の実ではなく、はるか彼方から流れ着いたものとして、ヤシの実が特別な意味合いを持つのだろう。

このようなヤシの実にまつわる発想と、明恵が考えていたインドへと連なる思いを、同一視することは、アナロジーであり、メタファーの一種(私のメタファーの分類では、Metaphor 2)とみなせる。



しかし、話はそれだけではない。単純に、海は一体だということで、「明恵の思い」と「ヤシの実」一般を、同一視してみたところで、実はつまらないものだろう。やはり、鷹島の海岸に漂着したヤシの実であったからこそ、意味があるのだろう。

明恵の思い」も「ヤシの実」の話も、それぞれ独立の話しである。おそらく、明恵の時代には、「ヤシの実」についての話は知られていなかったのではないか。そんなまったくつながりのなかった話が、鷹島の海岸に漂着したひとつのヤシの実によって、結びついたことになる。



(2014/08/17 追記):先日、JR きのくに線を移動していたら、広川ビーチ駅の少し南のところで、なんと鷹島が見えるではないか。この経路は、これまでにも何度も通ったことがあるが、意識したことはなかった。今後、この経路を通るときには、鷹島から名南風鼻にかけての風景を意識せずには通過できないだろう。