ヒトのタイプ標本3:タイプ標本の機能

前に、G.G. Simpson の本を引用したが、同書に、タイプ標本の機能として、3つの項目が挙げられている(英語版なら p183 訳本では p199)。

1) as the sole or principal basis for the description and definition of taxa (primarily of species)

2) as a standard of comparison, approximation to which warrants identification of another specimen as belonging to the same taxon as the type

3) as a vehicle attached to a name, carrying that name with it wherever the type may go when taxa are subdivided or united

つまり、種の定義や記載のときの基礎として、比較・同定の基準として、名前を担うものとしての3つである。

そして、これらの3つの機能を同時に満たすことは、タイポロジカルな発想に基づくのでない限りは、単一の標本では不可能であるというのが、シンプソンの主張だろう。

こう書かれると、3つを同時に満たすことはあり得ないと、多くの人が同意するものと思う。しかし、タイプの重要性を説く人たちは、それでもなお、これらの3項目のうちのどれかを強調してみたり、タイプ標本にこれらの機能を持たせ続けようとしているように思われる。曰く、タイプ標本を可能な限り詳細に記載するべきだ、正確な同定のためにタイプ標本を参照するべきだ、タイプ標本と名前は一対一に対応している、etc.

その一方で、タイプ標本は、ないよりはあった方が便利な側面もある。上の3つの機能のどれかを担う場合もある(もちろん、担わない場合もある)。でも、それは、タイプとしての機能を果たしているというよりは、典拠となる標本が残っていることの便利さからではないか。


さて、ヒトの場合には、これまで述べてきたように、タイプ標本がないわけだが、上の機能が満たされないことで、困ることがあるだろうか? ヒトを今さら再定義をする必要もないだろうし、同種かどうかは、ヒトが一番よく知っている。また、リンネが最初に命名したものであるから、先取権の点でも、常に古参異名(senior synonym)となるだろう。

生物の名前はなにを指示しているか - ebikusuの博物誌」でも触れたように、生物の名前は集団に付いているものである。集団の一部分であるタイプ標本に重み付けをすることは、どう理屈付けをしてみてもタイポロジカルであることを免れないと思う。