水族館はなにを目指すか:なぜアジとサバを区別するのか?

前に、「大阪府立博物館と橋下知事 - ebikusuの博物誌」のところで少し参照した「ミュージアムの小径」というブログで、「水族館教育の到達点(あるいはアジ・サバ問題)」という記事があった。

アジとサバの区別のことからはじまって、、“成人に対する博物館教育の到達点とは何か”という問題まで論じられていて、いろいろなことを考えさせられた。その考えたことをメモに残しておきたい。


水族館でアジとサバを区別すること自体は、水族館のラベルで、どのようなことを説明するかという問題だろう。もし、種類の識別が重要な問題なのであれば、区別点がよくわかるように表示するべきだろう。これは、説明を工夫することで、解決がつくこともあるだろう。

しかし、アジやサバを区別して、なんになる? と問い始めると、水族館や博物館における説明はなんのため? というところにまで、問題は広がってくるようだ。

実際、そのブログの著者は、大学で博物館に関する講義をされているらしくて、そのあたりの分野の専門家であるらしい。そのブログの著者のように、生物の専門家でもなく、また成人になった後で、その分野に特に入れ込んで勉強をする余裕もないときに、生物の名前を覚えることはなんの意味があるのかということなのだろう。

前に、「路傍百種について - ebikusuの博物誌」という記事を書いて、名前を覚えることの意義について少し論じた。その後、掲載の種数がほとんど増えていないことから、識別できる生物の種類も大して増えていないし、たまにどこかのフィールドへ行って誰かに教えてもらっても、次の機会にはきれいさっぱり忘れて、また同じことを尋ねることになるのだが…。

そんな私でも、生物を区別することで、新たな世界が見えてくるようになることは、よくわかる。鳥についてほとんど知らないが、庭に飛んでくるスズメやカラスやヒヨドリなどが、あれはハシブトガラスハシボソガラスかと疑問に思ったり、ヒヨドリにもイソヒヨドリが混じっていることを知ることで、それぞれの種類の特性が見えてくる。おそらく、サンゴを50種覚えれば(私も覚えてないけれど)、潜ったときに、水中の景観の見え方が違ってくることだろう。

名前を覚えることを漢字や英単語を覚えることのように考えると、なにかを勉強しなければならないとの切迫感に駆られるが、もっと素直に、世界をよく知るうえでの第一歩と考えるべきではないか。

おそらく、生物の専門家にはそのあたりのことがあまりにも当たり前すぎて、名前を覚えること、種類を識別することの意味が、きちんと説明されていないのかも知れない。


他方、“成人に対する博物館教育の到達点とは何か”という問題は、いろいろなレベルの観客に対して、どのような説明をするのか、またどのような到達点を目指すのかということだろうか。

博物館のボランティアや友の会などに加わってくれる人たちは、博物館の教育を熱心に受け止めてくれる人たちだろうが、そうでない人たちが、教育の到達点に達していないということでもないだろう。また、若い人なら、将来の可能性もあるが、専門的知識もない年寄りは教え甲斐のないということでもないだろう。じっくり時間をかけて説明を読む人や、リピーターとして何度も訪れる人もいれば、時間の余裕がなくて、ざっと全体の流れを見たい人もいることだろう。特に水族館の場合は、立地条件によっては、博物館へ行くというよりは、レジャー施設のつもりで観覧している人も多いだろう。


水族館の担当者からは、長い説明を書いてもなかなか観客が読んでくれない、といったことをよく聞く。だから説明は不要というのではなく、水族館の側からは、読まれるような文章を作成するべきだろうし、観客の側でも、水族館へ行くことが、博物館に行くのと同様に、説明を読んで学習する場なのだと、意識を切り替えていくべきだろう。

そもそも、水族館でなにを説明するべきかについても、確固とした見解はないように思われる。美術や音楽ならば、あれこれ説明しなくても、実際に鑑賞してみて、それで癒されたり感動することもあるだろう。水族館についても、生き物が美しいだの奇妙だのと、直接的な感覚に訴えている場合には、説明は不要だと思うのかもしれない。実際、水族館で耳にする観想は、「わぁー、キレイ、かわいい、大きい、気持ち悪い」などが多いようだ。あるいは、食べてうまそう、ということか。そして、そのような観客に受けるような展示をするようになる。ニモが流行ったときに、カクレクマノミを展示することは悪いとは思わないが、説明するべきは、ニモにまつわることではなく、カクレクマノミの生物学的情報だろう。また、「イルカショーはサーカス - ebikusuの博物誌」でも述べたように、生物学的な説明を放棄した“展示”も行われている。

さらに、水族館や動物園で、種名を示したラベルだけで、それ以上に説明をしないことが多いのは、見て欲しいものは生き物自体であり、余計な説明は要らないと考えているのかもしれない。誰でも、ライオンやキリンについて知っていると思っているし、表情や行動などを見ていれば、なんらかの解釈はできる(たとえ、それが人間の勝手な思い込みの投影であっても)。こういう場合のラベルは、名前や分類体系などの最低限の情報を、言い訳程度に表示していることになるだろう。

前に、「水族館は博物館 - ebikusuの博物誌」という記事を書いたことがある。説明のない博物館はあり得ないだろう。例えば、歴史博物館へ行って、考古学資料や仏像や古文書を見て、その時代的背景や展示趣旨の説明なしに、展示物の意味を理解することは不可能だろう。水族館が博物館であることを自覚するならば、生物学的な情報の説明を厭うべきではないだろう。個々の生物の分類や行動や生活史、生息場所の生態や環境、また生物の進化や多様性など、説明するべき項目は、いくらでも思い浮かぶ。そのような情報が、単なる生物の名前を覚えることだけでなく、生物のさらに深い理解につながるのではないか。


テレビのトリビアやらガッテンなどという番組が続いているのは、ちょっとした知識を得ることや知識がつながることによって、ささやかな知的感動がもたらされたり、知的好奇心が充たされたりするものだからだろう。アジとサバを区別することは、ほんのトリビアかも知れないが、そこから先に、アジとサバを区別することで見えてくる世界が広がっているに違いない。水族館は、そういう世界の入り口であるとともに、海洋生物学にまつわる情報の伝道者になるべきだろう。


(09/04/02 文章の趣旨を整理するために、かなり書き換えました)