富嶽三十六景の遠近法と隣接関係

生物学者富嶽三十六景の解説に刺激されて、富士山に関する〈隣接関係〉を論じて来た。富嶽三十六景の解説ページを検索していると、北斎が遠近法を駆使していたという解説がいくつものサイトで見つかる。遠近法の意味については、まだ完全には理解できていないのだが、前回、記号論的分析を論じたついでに、現時点での思いつきを書いておきたい。


富嶽三十六景の遠近法というのは、富士山の前にある風景が立体的に描かれているということだろう。そのように描かれた風景の先に、富士山が見えている。富嶽三十六景の場合には、前にある風景が奇抜で特徴的なものであり、その先にある富士山と独特の組み合わせになっている。

そのような組み合わせが、私の一連の文章で論じて来た隣接関係ということになる。隣接関係の議論に、さらに遠近法の意味を組み込んでみたい。遠近法自体、ひとつの空間を立体的に表現したものだろう。富嶽三十六景の場合には、そのような空間の彼方に、富士山が部分として含まれていることになる。つまり、遠近法で表現された空間がひとつの全体であり、富士山と前景が隣接しながら部分を構成している。この部分同士の位置関係(手前と後方)を示す有効な手段が、遠近法ということなのだろう。

さらに、遠近法においては、〈視点〉が水平線などで表現されるらしい。富嶽三十六景では、その地点から眺める富士と、描かれた前の風景との組み合わせで、北斎の独特の視点となっているようだ。


これまで論じて来た〈隣接関係〉や〈記号論的分析〉との関連で、特に強調したいことは、遠近法で表現された空間が、ひとつの〈完結した空間〉であることである。つまり、そのような景色の組み合わせや空間の切り取り方は、北斎の見てとった時間と空間であり、そこに北斎のオリジナリティーがあるのだろう。しかし、富嶽三十六景という題材や、遠近法に富士山を組み込んだことによって、虚構ではない現実の情景に縛られることになったのではないか。

遠近法が〈完結した空間〉を指示するものであることは、絵の専門家からすれば、あまりにも当たり前過ぎることかも知れない。それでも、自分の頭であれこれ考えてみた後では、日本の絵巻物にしろ、文人画にしろ、あるいはキリスト教の宗教画にしろ、遠近法を使わなかった絵画では、ひとつの〈完結した空間〉を指定していないことが見えてくる。さらに、今回の富嶽三十六景の議論で強調した〈隣接関係−インデックスーメトニミー〉を支えるものが、全体を構成する〈完結した空間〉であり、そのような空間性を描写する技法が遠近法ということになる。



(2013/10/10 追記):遠近法のことを検索していると、思いもしなかった事柄がつながって来て、非常に驚いている。ひとつには、哲学者のニーチェが〈遠近法主義〉ということで、そのような見方を批判しているらしい。他方で、このブログで何度も取り上げている哲学者のパースが、射影幾何学を論じていて、彼のカテゴリー論や宇宙論とも結びつくらしい。ふたりとも19世紀から20世紀にかけての哲学者で、従来の形而上学への批判と乗り越えを目指したということで、これまでもそれなりに興味を惹かれてきた人物である。さらにこの二人が、エマーソンという思想家に結びついているというのが、日本のパース学者である伊藤邦武氏による「パースの宇宙論」での、読み解きでもあるらしい。「パースの宇宙論」という本は、最初に読みかけたときに、同じ著者の「パースのプラグマティズム」に比べると、なにを論じているのかがわかりにくくて、投げ出していた本でもあった。

ついでに、〈パース〉という単語だけで検索すると、オーストラリアの都市名の〈Perth〉と、「遠近法」や「透視図」などの〈perspective〉、そして哲学者の〈Peirce〉が引っかかってくる。まさか、Peirce が perspective と結びつくとは思わなかった。

私が Peirce に惹かれたのは、生物における個物性や、言葉におけるメトニミーなどから、Peirce のインデックスや secondness(以前は第二次性と訳していたが、今後は第二性と訳したい)などへのつながりを感じたからだった。そこに、さらに空間や時間に関するperspecitve が含まれてくるようになった。このような思考の広がりを思うと、とても私の能力では解明出来ないようなことにかかずらわっているようにも思うが、自分なりに見通しをつけて行きたい。