俳句とレトリック

やりかけのことがいっぱいあって、レトリックのことを考えるのは封印していたのだが、ゴールデンウィーク中に考えたことを、少し書いてみたい。

俳句がメトニミー的な連鎖から成り立っていることを、レトリックのことを学び始めたときにどこかで読んだ気がするのだが、典拠を思い出せない。ネットで検索をしてみると、それなりの議論はあるようなのだが、あまりにも当たり前すぎるのか、そのことを直接的に論じているものは、今のところ見つけていない。俳句のことは、まったくの無知なのだが、レトリックの観点から考えてみたい。

「古池や 蛙(かわず)とびこむ 水の音  芭蕉」という句を例にするならば、古池に臨んで、ポチャリとでもいう水の音を聞いたことで、「古池」と「水の音」が並列されている。ここで取り上げたいことは、そのような対象の隣接性である。この「古池」で、作者が経験(見聞き)したことは、いろいろあっただろうが、そこで「水の音」を切り取ることで、まさしくこの作者が見た風景や雰囲気全体を描き出していることになる。おそらくカエルの姿は見えていないのだろうが、誰もがかつては経験したことのあるカエルの記憶とも結びついて、一瞬の水の音に収斂することになる。

このような隣接性の連鎖が強固になって、ポチャリという水の音を聞かせられただけで、カエルやこの芭蕉の出会った風景をイメージするようになると、メトニミーということになるのだろう。ここで考えたいことは、メトニミーとなるかどうかは別にして、隣接関係が俳句にとっていかに重要であるか、ということである。

また中学校で習った記憶のある俳句を例に挙げるなら、「五月雨(さみだれ)や 大河を前に 家二軒 与謝蕪村」についても、大河と家二軒が隣接関係にあることは明白だろう。そこに、五月雨が全体的な状況を描いていて、おそらく長雨で水かさが増した大河と、ちっぽけな家との対比を強調しているのだろう。

そう言えば、俳句には“写生”という理屈があったことを思い出す。大河と家二軒は、風景全体の中から、特に強調して取り出されたものだろう。その他のものはそぎ落とすことによって、却って、作者が見たその時の風景をクローズアップすることになっている。実は、大河と家二軒は、風景全体の部分でもあり、全体と部分とのメトニミーを構成していることにもなるだろう。

そんなことを考え始めると、与謝蕪村は画家でもあったことを、学校時代に習ったのを思い出す。まさに、上の俳句は、水墨画かなにかの日本画そのものであり、日本画の特性は、メトニミーにあるのではないかと思えてくる。そう考えると、西洋画はメタファーそのものではないか。写実かなにかで、いかにも人間そっくりのものを描きながら、なんらかの神話やキリスト教の話をほのめかしている。そんなところまで話が拡散していく。

もちろん、対象が隣接関係になるだけでなく、対象とそれを観察している「私」が隣接関係になることもある。「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり 小林一茶」ならば、「私」である一茶が明示されているし、「春の海 ひねもすのたり のたりかな 与謝蕪村」ならば、春の海がのたりのたりとしていることを、ひねもす眺めている蕪村がいるのだろう。



話が変わって、ネットを検索していると、俳句の季語は提喩(シネクドキ)であると論じている人がいるらしい(外山滋比古:『日本の修辞学』)。その原著には当たってはいないのだが、これも、非常に納得がいく。上の俳句でいえば、蛙や五月雨という特定の語が、季節というクラスに属している。さらに、「古来、この季語を入れた有名無名の句をすべて背後に背負う」ことになる。そう考えると、俳句の季語の大きな意味(秘密?)が見えてくる気がする。


隣接関係で述べられた事柄は、作者が見た特定の事象である。そのような個人的体験が、誰にでも共有できる一般的な叙述となるのは、季語のおかげということになる。季語が、誰もが思い浮かべるありふれた季節の単語だからこそ、またその他の俳句でも使われて来た普遍的な感覚を共有しているからこそ、俳句に取り上げられた極めて個人的な特定の事象を、普遍化あるいは一般化する役割を担っていることになる。つまり、メトニミーで考えられる特定の隣接関係を、シネクドキによる包含関係で、一般的な感覚へと昇華していることになる。


もちろん、すべての俳句が上に述べたことに必ず当てはまると主張するつもりはない。「侘び」・「寂び」などといった抽象的な概念に結び付けられるのならば、句全体として、メタファーを強調しているものもあるだろう。


例によって、自分の思いつきを楽しんでいるうちは大胆なことが言えて、多くのことを学んで行くうちに、言えることが少なくなるのだろう。俳句の理論書の一冊でも読めば、ここで触れたようなことはすべて書かれていることかも知れない。それでも。今の時点で思いついたこととして、書いておきたい。