俳句と和歌で、地震を詠むこと

俳句のことを考え始めるきっかけになったのは、4月の半ば頃に、朝日新聞の朝日歌壇を見たことだった。地震原発の事故から1ヶ月ほどが経って、和歌や俳句でどのように先の地震が詠まれているか、ちょっと興味を持った。

そのときに、自分でも大発見だ!と思ったことは、和歌の方はほとんどすべての掲載の歌が地震に関することを詠んでいたのに、俳句の方は半分くらいしかなかったことである。このことが、俳句と和歌の特質を示しているように思えた。

地震の状況を述べて、なんらかの感慨を表現するために、和歌は適しているが、俳句は短すぎるのではないか。もちろん、俳句の中にも、現場に居合わせた人にしか詠めないようなすばらしい句があった。それに、理屈の上では、現場に居合わせなくても、身近な季節の変化から、現場への思いを重ねあわせた句を作ることも出来るのだろう。しかし、今回のような大地震に直面したときに、そのような現場を知らない句では、どこか虚構のものになるのだろう。それだけ、俳句が現場性を重んじているのではないかと思った。

そのような現場性を表現するものが、作者が切り取った「隣接性」だろうというのが、先に書いた文章を考えた発端だった。