俳句とレトリック(付け足し)

俳句とレトリックのことで検索していると、「春雨やものがたり行く蓑と傘 (蕪村)」という句が出てくる。この句は、佐藤信夫の「レトリック感覚」でも触れられている。そこでは、細かな説明はされていないが、その前の文脈で、芥川龍之介の「羅生門」の「女のかぶる市女笠や男の揉烏帽子」というかぶりもので、人(女と男)を表すことに言及しているから、蓑と傘が、それぞれを身につけた人を示す換喩(メトニミー)の実例として、述べられているのだろう。

しかし、俳句全体からすれば、蓑と傘が人を示すということを指摘するだけではつまらないだろう。むしろ、春雨の中で、蓑と傘だけを、敢えて強調して取り出したことに意味があるのではないか。蓑と傘が、風景全体に対するメトニミーとなっている。このブログで前回述べたことに従うならば、蓑と傘は蕪村が取り出した特定の隣接関係である。蓑と傘に必然性があろうが、偶然であろうが構わない。とにかく蕪村がそのふたつを殊更に取り上げただけである。ところが、そのような特定の事象が、春雨という季語(シネクドキでもある)を媒介することによって、その季語にまつわる場や風景に組み込まれることになり、誰もが思い浮かべることの出来る情景を描いた句に仕上がっている。

ここからさらに、蓑と傘になんらかの象徴的意味を読み取ることも出来ないこともないだろうが、そのようなメタファー性よりも、蓑と傘を取り出したメトニミー性にこそ、この句の意義があるように思える。



俳句とレトリックで検索をしていて、また別の重要なサイトを見つけた。「俳句の世界制作法 ノート(1)」から始まる一連のページなのだが、この「現在思想のために」というブログは、レトリックを学び始めたときや、パースの思想を勉強するときに、一生懸命に読んだ記憶がある。もしや、今回の私の俳句の論議についても、以前に読んでいたことが潜在意識となっていて、影響を受けているのではないかと思ったりもしたが、一通り目を通した限りでは、かつて読んだ記憶もないし、論点でも直接的に重なることはないようだ。しかし、「写生」や「モンタージュ」などは、私の議論とも関係するだろうし、もっと広い文脈の中で論じられているのだから、今後熟読をして、改めて触れたい。