左と右5

坂本賢三(1982)『「分ける」こと「わかる」こと』講談社新書(今は、講談社学術文庫に入っているらしい)を読み返していると、ピタゴラスが10種の対を挙げているらしい。つまり、有限と無限、奇数と偶数、一と多、右と左、男と女、静と動、直と曲、光と闇、善と悪、方と矩(=正方形と長方形)の10種である。

このうちのいくつかは、先の奥野さんの本(目次参照)にも取り上げられているから、奥野さんがピタゴラスのことを意識していたのかどうか興味があるところである。もちろん、このような対は他にもいくらでも考えられるだろうから、逆に、ピタゴラスがなぜこれらの項目だけをとりたてて強調したのかも重要なポイントなのだろうが、それは追々調べることにしよう。


これらの対を眺めていると、質的に違うものを並べたり、連続的に推移するものの両極端であったりするのに、右と左だけは、ほとんど違いがないことに気がつく。だから、右と左は、視点を替えれば逆になる。


そのような右と左に、善と悪のような別の対を当てはめたりすることは、まさにメタファーということだろう。あるいは神話などでは、光と闇とか、男と女だとかが、左右の方向性と対応づけられたりする。つまり、メタファーを駆使して、世界を“合理的”に解釈しようとしたものだろう。こういうことは、以前にも誰かが考えているに違いない。


以上のピタゴラスのことと絡めて、ここで取り上げたいことは、右と左が、そのように曖昧で流動的なものだから、なにか別の確かなものとメタファーにして、把握しているということである。それが、自分自身の体の左右性であったり、太陽の向きであったり、東西の方位であったりするのだろう。このような方向性同士のすり合わせも、またメタファーだろう。ところが、上で述べたような概念の対とをすり合わせることに比べると、メタファーであることが気づかれにくいのではないか。

思えば、子供の頃、左右の覚えが悪くて、腕のホクロや注射の跡などを目印にして、右左の確認をしたことを思い出す。その頃から、自分の体を尺度にして、右左のメタファーを練習していたことになる。


(2010/12/20 追記):
先に少し触れた今井むつみ「ことばと思考」という本は、「左」「右」に相当することばをまったく持たない言語のことをとりあげながら、このようなメタファーに関する考察が欠けている。別に「左」「右」に相当することばを持たなくても、方向性をヒトは認識できる。「異なる言語の話し手は、世界の見え方が違う?!」などと、ウォーフ仮説を検証するように銘打ちながら、このあたりの言語の多様性と普遍性が出現するレベルが区別されていないから、結論もどっちつかずのものになるのだろう。詳細な実験をいろいろやってはいるのだが、その解釈も「フーン?!」という程度にしか、受け取れないことになる。