脳とレトリック

4月に同じ職場の人が、軽い脳梗塞になった。幸いなことに、ほとんど運動機能に障害は起こらなかったのだが、言葉の方が少し元の状態には戻っていないようである。

それで、脳の機能についてネットで調べてみると、左右の大脳半球で大きく異なっているらしい。左半球は、言語、計算のほか、左右の手の習慣的な行為のプログラムを担い、右半球は、空間、風景、顔などの認知に優っているらしい。*1

それで、ご当人に尋ねてみると、たしかに左半球の血管が詰まりかかったらしい。また、右手の力が入りにくい症状も出たらしい。

そんな訳で、脳のことは非常によく調べられているのだな、と思った次第。


そういうときに思い出したのは、レトリックの解説などで、必ず出てくるヤコブソンのことである。「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」という文章を、多くの人が引用しているのに出会って来た。しかし、失語症などというものが非常に特殊な事例に思えて、ヤコブソンのものを特に読もうと意識したことはなかった。

ところが、上の脳の機能をちょっと意識して眺めてみると、左半球はメタファーに関することであり、右半球はメトニミーに関することであるのに気がつく。おそらく、こんなことは、既に誰かが考えているに違いない。それでも、これまでレトリックのことを考えて来た経緯からすると、多少は独自な視点からも考えられそうである。

例えば、前に書いたこの記事では、メタファーが、シネクドキに基づくものとメトニミーに基づくものとに分けられることを考えた。もしその区分に意味があるとしたら、それぞれの半球が障害を受けることで、理解されなくなるメタファーの種類が違うのではないかと、考えたくなる。

そういう訳で、ヤコブソンの「一般言語学」を購入して、読み始めたところである。ヤコブソンの言葉遣いや、訳語に慣れるのに、ちょっと苦労しそうであるが、追々と勉強して行きたい。



以上のようなメモを作っていたときに、ちょうどシンクロニシティというべきか、たまたま今日の午前中に、人間の恐怖などの感情に、脳の中の扁桃体が関与しているという研究発表を聞く機会があった。脳の特定部位の機能がかなりわかって来ているという印象と同時に、そこで起こっていることやら、その周辺との相互作用やら、恐怖という感情そのものやら、わからないことだらけという印象でもあった。もちろん、そういう中で、なんとかわかることを解きほぐそうとされていることは、感じ取れた。

講演を聞く前に考えていたところでは、神経反応などの物質的な部分と、感情などの精神的な部分とが結びつくためには、メトニミーやメタファーなどが何層にも積み重なっているに違いないと思っていたのだが、脳の中の“レトリック”を解明するところまでは行っていない印象だった。むしろ、聴衆が物理やコンピュータや生物や哲学などの関係の人たちだったことから、それぞれの専門的な発想枠から質疑応答をすることが、まさに、脳の機能をメタファとして論じていることであると思えた。

*1:このような体の中の左右性は、以前に「左と右」の一連の文章で書いたように、互いにメタファーとして対応させられて、身体性の“体系”になっているに違いない。