佐藤春夫記念館

10月前半の三連休のときに、和歌山県新宮市佐藤春夫記念館へ行って来た。そこは、熊野速玉大社の駐車場のすぐ前で、以前にも何回か通り過ぎたことがあったのだが、中に入ったのは初めてだった。しかも、佐藤春夫がどういう作家であるかも、ほとんど知らないのに行って来た。それというのも、今、秋の企画展で「なぜ、そこにあるのだろうか?−明石の春夫の墓と十和田奥入瀬渓谷の詩碑」というのをやっているのを、たまたま紹介記事で見たからである。




明石は、私が生まれて高校卒業の年まで暮らしたところである。私の住んでいたところのすぐ近くにはお寺が並んでいて、夏休みともなると、そこへセミ取りに行くのが日課だった。そのお寺のひとつが無量光寺であった。子供心にも、その門が立派であったことは覚えている。その塀に登ってセミを採ろうとするから、お寺の人に見つかると怒られるものと思っていた。それで、中に入ったことは数える程しかなかった。薪を積んだ煙突があって、死体を焼く場所だと思っていたから(実は、陶器を焼いていたということを、今回知った)、ますます入るのが恐いお寺だった。もちろん、その中に、佐藤春夫の墓があるということなど、まったく知らなかった。

それに、明石にゆかりの有名人に稲垣足穂という人がいるのは、高校生の頃には知っていた。「明石」という本を図書館で借りて読んだ記憶もあるし、無量光寺に出入をしていたらしいことも、なぜか覚えていた。少し前に、別の縁で彼のことを調べていたら、若い頃に佐藤春夫に師事していたらしいことも知った。

そんなこんなで、遠い記憶がパタパタとつながって行くようで、ぜひとも行ってみたい気になった。「なぜそこにあるか」については、無量光寺の小川龍彦住職が関わっているということを、紹介記事で知った。子供の頃の記憶でも、そこの住職が文化人であることは、親などから聞いていたような気もする。


そんなことを思いながら、新宮まで行った。いつもは車で行くところを、JRで行ったのだが、これも白浜以遠に乗るのは、高校時代に乗って以来だった。

三連休中ということで、熊野速玉大社の方は以前に訪れたときに比べてもかなり人が多かった。記念館の方は、それに比べれば圧倒的に少ないが、それでも私たちが見学している間に、他にも何組かが入れ替わって出入りしていたから、普段に比べればよく入っていたのだろうか。新しい資料の公開ということで、佐藤春夫ファンならば、見逃せないものなのだろう。

小川住職と佐藤春夫の交流は、住職が大学へ入るために東京へ行ったときに、佐藤春夫のところへ出入するようになったことが始まりらしい。しかも、その交流は終生続いたらしい。そしてその縁もあってか、倉田百三無量光寺に滞在したり、武者小路実篤やらいろいろな文化人と交流もあったらしい。また、浄土宗の法然の研究家でもあったらしい。そのような文化人が自分のすぐ近くに住んでおられたとはまったく知らなかった。

また、佐藤春夫についても、まったく知らないことばっかりだった。秋刀魚の歌にしても、最初の部分を知っているだけで、その詩の背景についてはまったく知らなかった。望郷五月歌で「空青し山青し海青し」と詠っているとは聞いていたが、その全体も読んだことはなかった。南紀の春の情景を見事に表現していると思う。なぜこれまで佐藤春夫のものを読んだことがなかったのか、自分でもわからないのだが、熊野が生んだ文豪として、改めて彼の書いたものを読んでみたいと思ったことだった。

このような企画展がなければ、佐藤春夫のことも無量光寺のこともまったく意識することがなかっただろう。次に明石に帰ることがあれば、ぜひとも無量光寺を訪れてみたいと思っている。