シネクドキ(提喩)の位置づけ

以下の図は、瀬戸(1995) の「認識の三角形」を少し改変したものである。



この図をにらんでいると、いろいろなことが思い浮かんでくる。それぞれのレトリックの基礎となっている類似関係、包含関係、隣接関係などという関係は、生物の分類でも重要なものだろう。

レトリックの世界では、シネクドキを独立した比喩と見るか、メトニミーに含まれるものとするかが、古くから議論となっているらしい。瀬戸は、この図を用いて、シネクドキが独立した比喩であることを主張しているらしい。ここでは、生物のことを交えながら、シネクドキのことを考えてみたい。


シネクドキは包含関係に基づくものであり、包含関係は類と種の関係である。花見は、花という類で、桜という種を示している。また、ごはんという種で、食事という類を表すこともある。

一方、メトニミーは隣接関係に基づくものであり、「赤ずきん」のように部分を示すことで、少女を示すこと。あるいは「鍋が沸く」のように全体をいうことで、中の液体のことを示すような比喩である

このような「類と種」と「全体と部分」とをどうとらえるかが、メトニミーとシネクドキを分けることのポイントらしい。


この「類と種」や「全体と部分」などと言われると、生物の分類の議論を聞いているかのような気持ちになってくる。例えば、通常のリンネ式階層で、種が属に含まれ、属が科に含まれるような入れ子の関係は、まさしく類種の関係だろう。また Ghiselin のindividuality thesis によれば、生物の種(タクソン)は、一見すると生物個体の集合のように見えるが、「全体」としてはindividualであり、各生物個体は、種全体の「部分」を構成することになる。

Ghiselin の考えは、集合やクラスなどというものにとらわれている発想から、individualという存在を区別することだろう。class は定義があって実例を持つが、individual は定義されず実例を持たない。individual は具体的で、時間と空間に限定されたものであり、プロセスに関与するが、class は抽象的で、時間と空間に限定されず、不変であり、プロセスに関与することはない。

Ghiselin のいう生物種のようなものは、自然界にも、人間社会にも多く見られる。例えば、太陽系は、地球や火星などを部分に含みながら、全体としてひとつの individual になっている。地球は太陽系の一部ではあるが、太陽系という集合の要素ではないだろう。太陽系は内包によって定義されるものではないし、地球や火星が外延(メンバー)ではない。このようなindividual の例は、特定の国家や学校・会社など、いろいろ考えられるだろう。

以上のように、対象がclass であるかindividualであるかを峻別することは、「類と種」および「全体と部分」の2つの関係を区別することであり、シネクドキとメトニミーとの区別にも関わっているように思われる。

シネクドキにしろメトニミーにしろ、ある対象に言及することによって、別の対象に言及するものだとすれば、それぞれの対象や対象間の関係(認知領域やらスキーマといわれるもの)が、メトニミーはindividual に関するものであり、シネクドキは class に関するものなのではないか。

シネクドキがclass に関するものであることは、類が class そのものであることから、自明だろう。メトニミーがindividualに関するものであることについては、ちょっと単純ではないようだ。しかし、大筋では、メトニミーは、ある特定のものごとにかかわるものだと思われる。このことは、メトニミーに想定されている隣接(近接)関係というものが、特定の状況や特定の文脈のもとで設定されているものだと考えれば当然のことだと思える。

例えば、Lakoff and Johnson の "Metaphors we live by"で、メトニミーの例として挙げられているものでは、He bought a Ford. Nixon bombed Hanoi. などと、固有名詞が入っている例は、特定の製品や人や場所や機関などで、その言及されている内容が特定のものとして固定されている。一方、THE PART FOR THE WHOLE で挙げられている The Giants need a stronger arm in right field. というのは、腕は人の体の部分ではあるが、stronger ということで、weaker ではない腕を持った人というクラスを指しているのだろうから、これはシネクドキだろう。同じ THE PART FOR THE WHOLE でも、Get your butt over here ! では、あなたのお尻で、あなたの体を指示しているのだろうから、特定のindividualに関するものであり、メトニミーだろう。

もちろん、どっちつかずのものもある。赤鉛筆と述べたときに、「芯が赤い」鉛筆であることを強調するならば、メトニミーだろうが、黒鉛筆、青鉛筆との比較の中で、赤いもののクラスを想定するならば、シネクドキだろう*1。結局、対象に対してどのような視点を当てはめるかで、メトニミーであるか、シネクドキであるかが決まってくるということだろうか。

生物の分類では、「類と種」に基づく関係が支配的であり、そのうえで敢えて「全体と部分」の関係を強調しなければならなかった。一方、比喩の場合には、「全体と部分」から「類と種」の関係の独立性を敢えて主張しなけらばならなかったようだ。この対照は非常に興味深い。生物の場合は、同じよう個体の集まりからclass が認識され易く、比喩の場合には、発話自体がトークンであることから、individualであることが認識され易かったのだろうか。あるいは、クラスやカテゴリーなどという発想が、あまりにも日常言語の中に入り込んでいるために、あえてレトリックであることが意識されないのかも知れない。

シネクドキとメトニミーを分けることに、class であるかindividualであるかを適用することは、最初に掲げた図の提唱者である瀬戸の区分からは少しずれてくるかも知れない。しかし、その図で述べられている「意味世界」と「現実世界」の区別を、明瞭な形で示すことになると信じている。

*1:ここでの議論は、鉛筆の芯が character であり、芯の色がcharacter stateであるとする分類学の議論を思い浮かばせられる。