「進化論はなぜ哲学の問題になるのか」の感想4:階層性

個人的には、生物における hierarchy というものを考えることは嫌いではない。たしか高校の頃の教科書に、素粒子・原子などから、細胞−器官−個体−個体群−種−群集−生態系−地球−宇宙などを並べたものが、自然の階層として載っていた。これなどは、とにかく小さいものから大きなものまで、スケールの違いだけに基づいて並べたものだろうが、その当時には、それだけで世界がわかったような気になったものだった。さすがに今はそこまでナイーブではないので、階層の意味やら、階層が生じた要因やらを考えもせずに、なんでもかんでもごちゃまぜの階層を並べ挙げているのを見ると、なにかがっかりするようになった。

この本を買う前に、第2章が「生物学的階層における因果決定性と進化」であることを目次で見たときには、まあ読んでも良いかな、と思った章だった。もちろん、私が勝手に思っていたよりも、はるかに精緻な議論が書かれている。「分子−細胞−個体−個体群」という階層はありきたりのものと思えるが、単なる共時的な広がりだけでなく、通時的な面まで考察されている。そして、階層間の還元性や因果関係、選択のレベル(単位)などにも触れられていて、これらは本書の他の章にも関係しているだろう。私自身、全体の議論の流れをすっきりと理解できたわけではないので、また今後も読み返してみて気がついたことがあれば、付け加えたい。


敢えて食いつくところ探すということで、上に挙げられた階層の意味について考えてみたい。この著者が挙げている階層は、入れ子型で、全体・部分が含む含まれる関係にあるものらしい。全体はシステムで、相互作用をする要素の集まりらしい。こういうシステムを想定するとして、それならば全体や部分を決める基準はなにか?とは思うが、そのあたりは、このような分野では深くは問わないのかも知れない。

他にも、入れ子型として、概念の特殊/一般の関係を示す概念的階層、非入れ子型として、順序関係などが挙げているが、本章では、全体・部分の関係に限られている。

生物個体が部分で、その集まりが全体であるとすると、 M.T. Ghiselin のいうspecies as individual が思い浮かぶ。ついでに、概念的階層は class に対応するだろうから、同じ入れ子型の階層だったとしても、階層としての意味は大きく違っているだろう。

そうすると、個体の集まりとしての全体は、個体群ではなく、種としてはいけないのだろうか? 大域的進化個体群が種と見なされるとのことも述べられてはいるが、個体の集まりとしてのもっとも基本的な“全体=システム”は、種ではないのだろうか。この章全体を通じて、なにか“種”を避けているかのような印象を抱いた。

ついでに、この著者は、p48 で Ghiselin を紹介しているのだが、その直後で、いわゆる cladogenesis & anagenesis を示すような図を掲げて、chronospecies などに言及するのは、不思議な気がする。

この本では、6章7章で、種の定義にまつわることを論じてあるとのことだが、考えようによっては、この章は、種にまつわるプロセスを論じているとも言える。


(2010/10/01 追記):
3種類の階層については、巻末の用語解説にも載っていた(p209)。
入れ子型(nested hierarchy)と非入れ子型(non-nested hierarchy)とに分けられ、前者はさらに、「細胞−多細胞個体」のような物的実体の包含関係の構造を指す場合と、「リンゴ−果物」のように対象概念をクラスに分類する場合の集合論的な包含関係の構造を指す場合があるとのことである。

このような階層は、Ghiselin (1997, p.82)の本では、それぞれ、subordinate hierarchy, incorporative hierarchy, inclusive hierarchy と呼ばれていたのを思い出す。

このように関係を並べてみると、我田引水をしたくなる。この3種の階層の中で、集合論的な包含関係だけが、物的実体の関係ではなく概念的なものである。一方、その他の2つは、物的実体の関係である。さらに、ここにレトリックの用語を導入するならば、集合論的な包含関係はシネクドキであり、その他はメトニミーでいう隣接関係やら近接関係だろう。

そもそも、「個体−個体群」の関係は、果たして入れ子型になっているのだろうか?


(2010/10/22 追記):
昨日の日記の記事にも書いたのだが、パソコンのハードディスクが壊れたので、新しいものに取り替えた。古いハードディスクから吸い出したデータを、新しいパソコンに入れることが出来たので、あちこちにバラバラになっていたものや重複のものを整理したり、必要なものをまとめたりしたので、却ってすっきりしたところもある。

当たり前のことながら、フォルダーに、フォルダーやファイルが入っている構造というのは、まさしく入れ子の階層構造だろう。さらに上の本の著者の区分では、集合論的な包含関係ではないから、全体と部分の関係となるだろう。フォルダー自体に名前がついていて、その中のファイルの特徴を示しているようなこともあるかも知れないが、あるファイルがそのフォルダーに入るかどうかに規則性や必然性があるわけではない(特にデータファイルなどでは)。

ここまで考えると、生物における入れ子関係とのアナロジーを考えたくなる。このようなフォルダーの階層性に比べれば、生物の個体内の部分の関係性ははるかに密接なものだろう。全体の中で、器官や細胞などの部分が密接な関連をもって働いている。さらに、個体と個体との関係についても、競争や繁殖や、あるいは血縁関係などで密接な関係を持っていることだろう。

もちろん、パソコンのフォルダー自体は、人間に分かりやすいように単純化された階層関係だろう。OSなどのプログラムの詳細は知らないが、プログラムの中身では、はるかに複雑な階層関係があるのだろう。そうだとすれば、パソコンのフォルダーというもの自体が、メタファーということになるのではないか。

階層がメタファーであるかも知れないということは、私にとっては、非常に意外なことだった。系統樹思考はメトニミーだと、散々聞かされて来たのだから。枝で結ばれた階層は隣接関係そのものだと思って来た。ところが、改めて「樹形図はメタファーだ」を考えてみると、これまたあまりにも当たり前のことだろう。多くの素朴な樹形図は、関係を樹になぞらえただけの話だろう。むしろ、樹形図がメトニミーであるというためには、端点や枝などの部分がどのような意味をもっているか、つまりなにが隣接関係になっているかを、厳密に定義する必要があるということだろう。

このあたりのことは、樹形図と分岐図を考えるときに、説明されていることなのかもしれないが、私にとっては、ちょっとした驚きだったので書いておく。