「進化論はなぜ哲学の問題になるのか」の感想3:目的論

このブログでは、当然のことのように、生物における目的論的な議論を行なって来た。それというのも、昔読んだ Mayr の teleology & teleonomy の区別からすれば、正当な目的論的表現は、生物学にとって許容されるものと考えていたからである。また、Tinbergen's four questions で、ultimate cause を考えることは、why と問うことであり、適切な文脈においては、「〜のため」と答えることも、当然のことと思っていた。

もちろん不適切な目的論的言明もあるだろうし、科学全体や生物学の中で、どのような場合に目的論的が認められるのか、議論もあるだろう。それでも、生物学の哲学を考えている人ならば、生物の特性からして、目的論の意義を説明してくれるものと思っていた。それで、この本の目次を見たときには、第3章の「生物学における目的と機能」はぜひとも読んでみたいと思った章だった。

ところが、この章の著者は、どちらかというと目的論を否定する方向へ議論を進めたいらしい。本来ならば因果論・機械論的説明に「還元」されるべきところに、安易に目的論的言明が入ることは警戒するべきことらしい。それで、予測的使用や発見法的使用などと、限定的な役割を与える方向で考えているらしい。

そういう訳で、当初予想していたことと、著者の論旨が違っていて、なかなか議論の流れをたどれなかったのだが、そのことが逆に、いろいろなことを勉強しなおすきっかけとなった。私自身知らない議論もいっぱいあったが、知っていることやうろ覚えのことなどでは、本当にそういう議論の流れになるのだろうかと、いちいち反論を考えたくなって、却って思考を刺激されることになった。


先の感想2で、Owen のことに少し触れたので、5節の「「型の一致」と適応主義批判」という部分に食いつこうかと思ったのだが、キュビエから、サンチレール、オーウェンに至る流れで、機能偏重への批判から、非機能的構造としてのホモロジーに話を展開するのには、あまりにもページ数が少なすぎるようだ。その直後に、adaptationism 批判が来るのにも、馴染めない。結局、この節全体として、なにが言いたいのかよくたどれなかった。

大きな問題を論じるにしては、あまりにもページ数が少ないということもあったのだろうが、多くの項目に触れ過ぎていて、議論がわかりにくい。それでも、日本語で初めて紹介されるような項目もあるだろうから、最初のたたき台にはなるだろう。例えば、teleonomy という単語をネットで検索してみても、日本語ではロクなサイトにヒットしない(このブログを含めて)。この著者なりの議論の展開の中で、いろいろな項目に触れられていることは、議論への賛否は別にして、大いに参考になるだろう。

この章については、私自身の勉強の進展なり他の章との関連なりで、また触れたい。


それにしても、熟れたリンゴが木から落ちることを、自由落下法則に従っているとだけ解釈して面白いのだろうか? なぜリンゴは木から落ちる。熟れて重くなったから? 鳥に食べられなかったから? ナシは? サクランボは? マツは? ドングリは? などと考えたくなる。それは、果実は「なんのため」にあるかを考えるからだろう。