シネクドキとメトニミーの区別について:ネット上の論文から4

年末から、少し間が空いてしまったが、今回は、染谷 聡 (2003) 色彩表現におけるメトニミーとシネクドキの統合 (PDF)を取り上げる。

この論文は、題名の検索で引っかかってきたものであるが、いかにも“紀要”の論文という感じで、論文としての形式は整ってはいるのだが、内容としては、フランス語の例にわずかばかりのオリジナリティが認められるのかも知れないが、このブログよりもひどい思い込みや言いっ放しの羅列になっている。それでも、レトリックを最初に学び始めたときには、提起されたことをなんとか理解しようと努力したものだったし、批判的に拾うべきところがあると思えたので取り上げる。

この論文の趣旨は、「AはBの一種である」という公式が当てはまるものがシネクドキであり、メトニミーには当てはまらないというものである。そして、その公式によって、色彩表現に関しては、シネクドキとメトニミーが統合されるというものである。「AはBの一種である」ということ自体、“公式”などというのもおこがましいほどに、シネクドキを考えるときには当たり前のことだろう。実例中のメトニミーとシネクドキの解釈も独断に満ちたものである。

例えば、佐藤信夫の「レトリック感覚」の白雪姫の例を取り上げるのだが、

肌の色が白い女の子 → (メトニミー)色の白い女の子 → (一般化のシネクドキ) → 白いもの → (特殊化のシネクドキ) → 雪

ということで、シネクドキとメトニミーが統合できると述べている。ところが、この著者は、佐藤がこの文脈で、色の白い女の子を白雪姫と名づけるメタファーが、2段階のシネクドキに依るものだと論じていることに、まったく触れていない。そのくせ、「色の白い」ということを詮索すれば、肌という「部分」が白いということで、メトニミーだと論じている。

この議論は、生物の分類における、character & character state の議論を思い起こさせる。生物の部分としての肌(の色)が character であり、白いというのが、character state というものである。肌は部分であり実体(substance)であるが、白いというのは特性(property)である。白さということを、内包として強調すれば、それによってクラス(類)が構成される。

結局、肌の色の白い女の子のことを述べるのに、部分としての肌を強調するか(メトニミー)、白さを強調するか(シネクドキ)、白雪と呼ぶか(メタファー)の問題である。どの表現が正しいということはなく、発言者がどのような表現を使おうとするかの気分の問題だろう。重要なことは、背景にある理屈を混同しないことである。

この論文の著者が挙げている他の例でも、青すぎるブドウ、緑のワイン、黄色い嘴、白い口、灰色−曇るなどから、隣接関係をでっち上げてメトニミーを読み取ることは、そんなに難しいことではない。しかし、色を示す単語が、類を構成して、さらにそこからメタファー的に意味を拡大させていることを、この著者は理解していないと思える。

メトニミーとシネクドキを区別することは、ヒトがどのように類を作り、それを当たり前のように利用しているかを確認する作業であり、そこから類ではない個別の事象を分離する作業でもある。