認識の三角形に立ち戻って

先に、「シネクドキ(提喩)の位置づけ - ebikusuの博物誌」のところで、瀬戸賢一の「認識の三角形」について触れた。実は、その図は、講談社新書の「メタファー思考」の本の末尾についている「メタファー早分かり」から引用したのだが、瀬戸の多くの本については、参照しないままで、他人の論文で引用されたのを読むだけでお茶を濁してきた。

この年末年始に、瀬戸賢一(1997)の「認識のレトリック」を読んだ。メトニミーとシネクドキの区別は、非常に明快なものだった。メトニミーが「モノとモノとの隣接関係」であることについても、モノが個物であることをきっちりと述べてあった。先の「シネクドキ(提喩)の位置づけ」が、それほど外してはいないことを確認して安心するとともに、私が思いつくようなことは、既に誰かが考えているという点では、少しがっかりもした。残されたことは、メトニミーが個物に基づくものであることの意味を、生物などの具体的な文脈で考えて行くことだろうか。

知らない学問分野に立ち入って行く時に、わずかの知識しかない段階では、怖いもの知らずで言いたい放題だったものが、多くのことを知るにつれて、物怖じすることになるのだろう。今後は沈黙することになるかも知れないので、最後にまた“放言”をしておきたい。


「認識のレトリック」の200ページに、以下のような図が載っている。




この図を見ると、メタファーとメトニミー、メタファーとシネクドキが相互に影響し合っているということらしい。そのくせ、シネクドキとメトニミーは分離しているというのは、少し我田引水の感がしないでもない。ところが、このブログでこれまでシネクドキとメトニミーのことを考えて来た経緯からすると、これでもまだ区別がゆるい気がする。同じページに以下のような文章が載っている。

「メタファーがシネクドキともメトニミーとも結合するという事実は、メタファーが意味世界と現実世界の両世界にまたがるという見方が正しいということを立証する。メタファーのこの二面性に注意したい。メタファーの二面性は、「感じる」メタファーと「案じる」メタファーとの大別にも対応する。

このことは、メタファー自体が、ごちゃ混ぜの異質のものの集まりで、実は、さらに細分されることも示唆しているのだろうか。そうすると、下の図のように、メトニミーに対応するメタファーと、シネクドキに対応するメタファーとに分かれないだろうか。あるいは、メトニミーやシネクドキに基づかない、メタファーcというものがあるかも知れない。そんなことを考えると、これまであまり考えて来なかったメタファーのことも勉強しなくてはならなくなってくる。





このようなレトリックのことを考え始めたのは、ちょうど昨年の今頃に「生物の樹・科学の樹」の全部のコピーを手に入れて、その感想を書いたときだった。

メタファー的な体系化は「分類思考」に対応し、メトニミー的な体系化は「系統樹思考」に対応しているということは、ちょっとした驚きだった。レトリックの論理が、生物や自然を観察するときにも影響しているのだろうということは、素直に受け止めたつもりである。

しかし、学ぶにつれて、メタファーやメトニミーやシネクドキの区別さえ、定まっていない状況に気がついた。私としては、三項目が相互に推移することでもかまわないのだが、それぞれの比喩を支える論理が、生物分類の論理とどう対応しているのか知りたかった。シネクドキとメトニミーの区別にこだわって考えてきたのは、シネクドキこそ「分類思考」だと思うようになったからである(「分類思考」という単語自体が、融通無碍に使われているところもあるのだが)。また、メトニミーこそ、このブログの「博物誌」が目指すべき視点だと自覚したこともある。

生物の分類にレトリックが持ち出されたときに、自然界の事物を分類するにあたっても、心の中の「心理的本質主義」が発動することに結び付けられていた。しかし、レトリックのことを学んでみると、心の作用を扱うにあたっても、ナイーブな本質主義がはびこっているように思える。だから本質主義からは免れないものだと考えるか、モノの世界での本質主義否定の発想を取り入れて考えるか、分岐点なのだろう。

レトリックに、「個物」と「クラス」の区別を取り入れたいというのは、そのような試みなのだが、うまく行くかしら。