シネクドキとメトニミーの区別について:ネット上の論文から1

昨日、シネクドキとメトニミーの区別について、class と individual の区別を適用することを論じたので、そのことを踏まえて、ネット上で読むことができる関連する論文について、いくつかのコメントを書いて行きたい。

元来、このような分野についてきちんと学んだことはないし、関連する論文・著書を網羅して読める状況ではないので、このようなネットで読める論文は、非常にありがたく読ませていただいた。


まずは、黒田 航 (2008). タクソノミーとパートニミーとの混同について: Class Is Group メタファーの成立条件.(PDF) から。

この著者は、瀬戸の主張するシネクドキの独立性に賛同する論者らしい。そして、タクソノミー(類−種の関係)とパートニミー(全体−部分の関係)を混同(P/T 混同)する原因について考察している。

この論文は、今年のはじめにシネクドキとメトニミーの区別について考え始めたときに、非常にメリハリの利いた議論をしているように感じられたので、認知言語学の知識がないにも関わらず、なんとか理解しようとしたものである。


今となっては、この論文の著者は、あれこれと class についてこね回してはいるが、individual とclass の違いについて、理解していないと思われる。

つまり、外延に基づく定義に由来する member-of 関係と、内包に基づく定義に由来する instance-of 関係を峻別することを提唱しているのだが、これらの2つとも class に関することで、大した違いはないように思える。

なによりも、instance-of とmember-of の違いとして以下の例が挙げられているが、

a. John Lenon は The Beatles というグループ(is-a コレクション) の一員=メンバー[i.e., member-of(John Lenon(x), The Beatles(y)) が真] だが,

b. John Lenon は The Beatles の事例ではない[i.e. instance-of(John Lenon, The Beatles)が偽]).

ここで、メンバー(外延)を列挙することと、内包によって定義される実例を挙げることの微妙な違いを論じている。しかし、まさにこの例こそ、パートニミーとしてとらえるべき実例だろう。つまり、The Beatles は クラスや集合ではなく、individual であり、John Lenon はメンバーでなく、部分なのである。だから、The Beatles は、定義もされないし、始まりと終わりがあって、変化することも出来る。

もちろん、人が集まって、任意のクラスを作ることも出来る。例えば、英国人であるとか、ミュージシャンであるとか、また1940年に生まれた人であるとか。それで、John Lenon は、英国人やミュージシャンや1940年生まれの人のクラスに属すると同時に、また BeatlesHomo sapiens などのindividual(個物)の部分でもある。

同じような“もの”(例えば、人)が集まって、それが独自の機能や役割を果たしているならば、そこにも「部分−全体」の関係が成り立っていて、それは「類−種(クラス−メンバー)」とはまったく違っている。このことを理解するならば、タクソノミーとパートニミーを混同することもなくなるのではないか。


(2010/03/05 追記):
上の文章で、パートニミーと書いている部分は、すべてパートノミーとするべきだと思われる。そのことについては、以下の記事「partonomy か partonymy か - ebikusuの博物誌」を参照のこと。