シネクドキとメトニミーの区別について:ネット上の論文から2

昨日に続いて、ネットに公開されている論文から、シネクドキとメトニミーの区別について考えてみたい。今回は、内山和也(2007)「 転義法における隣接性と事実の上の関係−換喩についての一考察」を取り上げる。


この著者は、日本の学界の主流が、佐藤や瀬戸などの影響で、シネクドキを「類−種」の関係に基づく独立の比喩と考えることに、異議を唱えているようだ。世界の主流が、シネクドキをメトニミーに含めることからすれば、日本の学界の趨勢は異常なのだ、と言わんばかりである。

シネクドキを区別することの根拠については一応認めているようなのだが、「類と種の関係」を「全体と部分の関係」から独立させることには反対しているようだ。その反対の理由を読み取ろうとしたのだが、あまり説得的なものとは思えなかった。むしろ、なぜそこまで頑張るのかと思えるほど、感覚的な理由にこだわっているように受け取れた。


例えば、「一升瓶を飲む」という例を挙げているのだが、そこでなにを問題にしようとしているのかがほとんど読み取れない。せっかく、このメトニミーで、「一升瓶」が「酒」を指すこと、しかもその酒が「一升瓶に入った(特定)の酒」であること*1を認識していながら、「花見に行く」ときの「桜」が、特定の桜ではない(どこかの公園のどの桜でもよい)ことを認識していない。一方、メトニミーならば、花を折る・花を摘むというときに、折られた枝や、摘まれた植物全体は、必ず花が付いていた特定の枝や植物でなければならない。

「一升瓶」という単語が、文脈によって、「一升瓶を飲む」というときには、その一升瓶に入った特定の酒になり、「一升瓶を割る」なら、一升瓶のガラスとなることが、メトニミーが指定している隣接関係なのだろう。そして、この隣接関係は、偶然で一時的なものであり、必然的なものではない。一升瓶の中身が醤油のこともあるだろう。一升瓶がガラスではなく、陶器のこともあるだろうし、ペットボトルのこともあるだろう。要は、話題にしている“特定の一升瓶”とその文脈で、なにが語れるかがメトニミーのポイントだろう。

また、シネクドキが「意味の上の関係」であり、メトニミーが「事実の上の関係」であることで、両者を区別することについても、異論を述べている。メトニミーが「事実の上の関係」であることは認めているらしいのだが、シネクドキが必ずしも「意味の上の関係」ではないことを言いたいらしい。このことについては、先に掲げた瀬戸の認識の三角形で、意味世界と現実世界に二分されていることが、必ずしもそのように明確に区分されるものではないと、私も考えるので、同感できる部分もあるのではと思った。しかし、それにしても、著者の言う「意味の上の関係」と「事実の上の関係」が、なにを意味しているのかよくわからない。

転義法の分類に関して「意味の上の関係」と「事実の上の関係」とが区別されるとき、実は、そこで比較されているのは、その関係性の一般性の程度であると見做すことができる。たとえば、《桜が花の一種であること》は、《眼鏡が山田君の一部であること》よりも、一般性が高い事実であるということである。

ここでも、せっかく「関係性の一般性の程度」を問うところまで行きながら、「山田君と眼鏡」の関係と「桜と花」の関係の違いが、認識されていない。山田君という特定のindividual と、その人が眼鏡をかけることは、きわめて特定の個別の現象である。一方、桜が花であることは、桜が進化して花をつけなくならない限りは、時空を越えた“一般性”をもつものだろう。しかし、それは一般性の程度という問題ではなく、質的に違う対象なのである。

ついでに、「意味の上の関係」には論理的な必然性があると主張する点でも、著者は誤解していると思う。例えば、意味上の定義として必然であると思っている「母は女性の親である」ということでも、自然界を眺めてみれば、“常に”真実ではない。雌雄同体のカタツムリが子供を産むとき、母は雌ではない。また、桜は花であるが、マツは花か、ソテツは花か、あるいはシダは花かと考えれば、結局、母の定義にしろ、花の定義にしろ、事実とすり合わせをする中で、内容が変わっていくということだろう。だから、シネクドキのときに設定した類やクラスは、常に確実なものでも固定的なものでもない。しかし、たとえそのような仮のクラスであったとしても、「類と種」の枠組みの中で考えていることがシネクドキの意義だろう。

類やクラスを作ることが、人間の心の中の心理的本質主義によるものだ、とする考えもあるようだが、人間の心の中(意味世界)だけが独立したものではなく、常に現実とのすり合わせをやっていくものだと、私は考えている。そのような現実を認識し、表現する手段のひとつが、隣接関係に基づくメトニミーだと考える。

だから、メトニミーとシネクドキは、区別されなければならない。

*1:特定の一升瓶に入った、特定の酒という意味で、その全体はindividualを構成している。