「生物の樹・科学の樹」の感想2:メタファーとメトニミー

生物の樹・科学の樹」について、その博覧強記の文章全体をとても理解しているとは思わないのだけれど、目に付いたところ、食いつき易いところを、掘り下げて考えてみたい。

連載の6回目の「真なるものはつねに秘匿されている」で、メトニミーを取り上げて、メタファーと対比している。

「メタファーによる分類体系化とは、・・・、目に見える表面的な類似性に基づくグループ分けを実行しようという理念にほかならない。」 一方、「メトニミーとは“部分”を示すことで“全体”を表現する文彩である」

おそらく、通常の生物学徒ならば、このような重々しい単語を並べ立てられると、言葉に圧倒されて沈黙するか、自然科学とは関係のない話として無視するかのどちらかだろう。私にしても、メタファーやメトニミーについて、せいぜいのところ辞書的な意味しか知らないのだけれど、無謀にも食いついてみたい。

メタファー的な体系化は「分類思考」に対応し、メトニミー的な体系化は「系統樹思考」に対応しているとのことだから、メトニミーの方が優れていると言うのかと思ったら、ともに現実世界の背後に秘匿されている本質やら系譜やらを求めるという点で、心理的本質主義の強固さを示す方へ話を持って行きたいらしい。

このようなことを考えることが、認知科学なのだとしたら、まあそれも悪くはないだろう。

同じような話は、雑誌の「生物科学」の文章*1でも触れている。こちらは、アナロジーとメトニミーを対比している。このような単語が、これから三中さんの文章で踊ることになるのだろう。


しかし、ここでは話を思いっきり単純化して、レトリックというものが、ある対象を、別の対象でなぞらえるものだと考えれば、俄然、多くのことが見えてくるのではないか。つまり、複数の対象を、どのような論理で比較して、並べ立てるかだろう。なんのことはない、生物で“形質”を比較するということではないか。

別の論文で、アナロジーとメトニミーを対比していることは、そのことを暗示しているのだろうか。まさしく、アナロジーは相似であり、そこには至近的な要因が作用しているのだろう。そうすると、メトニミーはホモロジーだろうか。またシネクドキはタクソノミーと関連するらしい。要するに、比較する対象間の関係性がどのようなものであるかによってレトリックが決まっている、ということではないか?

また、メトニミーが部分と全体にかかわるということでは、Ghiselin 主義者ならば、タイプ標本と種のことを思い浮かべるだろう。つまり、新種記載にあたって、部分としてのタイプ標本から、種全体を記述することである。


「真なるものはつねに秘匿されている」ということだが、重々しい言葉を並べ立てるだけでなく、具体的な生物の文脈の中に切り込んで、秘匿されているものをあばいて行ってほしいものだ。

*1:三中信宏. 2008. 「種」概念の光と闇−概念の分類ではなく、その出自をたどろう. 生物科学, 59: 238-243.