「生物の樹・科学の樹」の感想3:シネクドキと分類群の名称

連載の6回目のところで、メトニミーとメタファーを述べた終わりの方で、シネクドキ(シネクドーク)について触れている。

「お花見」の“花”が実は“桜”を指し、「卵焼き」の“卵”が“鶏卵”を意味するように、ある集合(タイプ type)とそのメンバー(トークン token)との関係にもとづくレトリックである。

これに続いて、近年、分類群の名称を変更しようという動きで、“チョウ”と“ガ”を含む「鱗翅目」という名称を「チョウ目」に変更しようという動きに対する反論を、シネクドキと関連させて取り上げている。

“鱗翅目”は“チョウ”と“ガ”の両方を指していたのに、“チョウ目”と名称変更してしまうと“ガ”が除外されて“チョウ”しか含まれなくなると感じる人が少なくないということだ。名称変更に伴ってシネクドークの関係が変わってしまったわけだ。

十脚目(エビやカニやヤドカリなどを含む)を、エビ目とすることについて、私も考えたことがあったので、このあたりの説明は、最初に読んだときには、簡潔でうまいなあと感嘆したものだ。しかし、よくよく考えてみると、この話はそんなに単純ではないようだ。


このような変更の動きは、文部省の学術用語集・動物学編の1988年版から始まったと聞いている。その後の岩波生物学辞典第4版(1996年)の分類表で徹底されたらしい。そこでは、それなりの論理や“理屈”があったものと思われる。

上のシネクドキの例では、「お花見」や「卵焼き」は、タイプ(類)を述べながら、実はトークン(種)のことを指している。この反対に、種をもって類を示すシネクドキも考えられるだろう。「晩ご飯」、「瀬戸物」などはその例で、特定のトークンから、食事一般、陶器一般を示していることになるだろう。

このように、ある場合には、類をもって種を示し、別の場合には、種をもっと類を示すことに対して、なぜなのか?と考えることは、認知科学だとかの格好のテーマとなることだろう。


ところで、生物(群)の名前をどのように命名するかは、なんらかの“規則”によることもあるのかも知れないが、単なる慣習やら偶然によることもあるのではないか。*1

国際動物命名規約が規定しているのは、科階級群(上科まで)までであるが、その名称は、下位のタイプ属によって決められる。つまり、クルマエビ科(Penaeidae)、イセエビ科(Palinuridae)などと、その元になった Penaeus や Palinurus に -idae を付けて科名にする。これは、種をもって類を示すものだろう。このようなやり方は、命名規約でのタイプ化(typification)に従ったものだろう。

一方、目以上の分類群は、なんらかの特徴を示す名称が用いられることが多いようだ。鱗翅目や十脚類はまさにそのような例だろう。このような名称に重みを持たせることは、タイポロジカル=類型的(typological)な例として、取り上げることもできるだろう。

また、目以上の名称でも、typification の例もある。例えば、魚類や鳥類では、シーラカンス目Coelacanthiformes やら、タカ目 Falconiformes などと、-formes の語尾を付けて、下位の分類群の名前を使っている。

ところが、このような目以上の名前は、命名規約の適用外だから、実は、どのように名前をつけてもいいのである。さらに、日本の和名については、多少の慣習はあるかも知れないが、まったく規則はない。先のエビ目やチョウ目という名前は、そのような状況下で、魚類や鳥類で行われているような typification を、他の分類群でも、和名として先取りしたものといえるだろう。

鱗翅目は Lepidoptera を 、十脚目は Decapoda を忠実に訳したものだろうから、チョウ目やエビ目とすることは、外国語と対応していないものとして、違和感は残るだろう。

チョウ目のネーミングの不適切さを示すために、シネクドキはかなり魅力的な根拠に思えたのだが、どうも決定的ではないようだ。

*1:タクソンの名前が固有名だと考えれば、当たり前のことかも知れないが…。