生物の名前はなにを指示しているか

生物の学名(例えばヒトの Homo sapiens という学名)はなにを指し示しているか? と問われたときに、「種の全体(ヒトというタクソン全体)」を指すと考えることは、それほど突飛なことではないだろう。種が集団であると考えることは、生物学の中でごく普通の考え方だろうから、空間的・時間的なひろがりの中で、“かたまり”のようなものを想定することは容易に出来るだろう。このことは、ヒトだけではなく、トキでもショウジョウバエでも、あるいはマンモスのような絶滅種でも同様のことが考えられるだろう。

もちろん、他種との境界や区切りをどのように決めるかや、そのような“かたまり”がどのような要因でまとまりを成しているのかなどいろいろ問題はあるだろうが、それは今は論じない。

いずれにしても、そのような“かたまり”は、歴史上、唯一の存在だろうから、その名前は固有名ということになる(固有名については、これまた広範な哲学的な議論があるようだが、これも今は論じない)。

以上のことは非常に単純なことだと思えるのだが、話をややこしくする要因がいくつか存在する。

例えば、ヒトという集団内には同じような個体がいくらでもいるが、そのひとつひとつの個体をどう見なすか、あるいはどう呼ぶかである。ヒトという集合のメンバーか、ヒトの部分か。このような種(タクソン)と個体の関係を論じたのが、前に少し触れたM.T. Ghiselin の 種の individuality thesis である。


また別の混乱する要因として、命名上の名義タクソン(nominal taxon)がある。こちらの方は、プロの分類学者が大真面目に主張するからやっかいである。すなわち、生物の学名は、タイプ標本にくっ付いているという主張である。

それで、先に触れた「動物分類学30講」でも、名義タクソン、分類学的タクソン、動物学的タクソンを挙げてあり、「分類学的タクソンに名をつけると不都合が起こる(p97)」ということで、担名タイプ(name-bearing type; 種の場合はタイプ標本)と結びついた名義タクソンこそが安定だなどと言わんばかりである。

名義タクソンの定義は、動物命名規約の用語集によれば、「ある適格名によって表示されるタクソンという概念」ということである。この説明を普通に理解すれば、その適格名が示しているものは、やはり集団ということではないか。

名義・分類学的・動物学的タクソンなどと区別をするのは、いかにもややこしい話に見えるが、名義タクソンが適格名(available name)で示されるものであり、分類学的タクソンが有効名(valid name)で示されるものであり、動物学的タクソンが自然のタクソンにもっとも近いものであり、種に対する認識が深まる段階を示しているのだろう。いずれにしても、それぞれの名前によって示されるものは、なんらかの集団ということだろう。

そもそもこのような3つのタクソンを分けることの目的は、問題となる集団が同じであるか違っているかなどの分類学的または動物学的な判断について、命名規約は口出しをしないということだろう。

タイプ標本と集団との関係についても、いろいろ述べるべきことがあるが、またの機会に。