「分類思考の世界」の感想:メタファーで語られた分類学

三中信宏「分類思考の世界 − なぜヒトは万物を「種」に分けるのか」という本が出て、注文していたのが10月末に着いたので、パラパラと読んでいる。今年の初めに、この本の元になった連載の「生物の樹・科学の樹」を通読したことがあったので、今回は興味のあるところから読んでいっている。連載の記事以降に書き換えられた部分もあり、どこをどう変えたか対照できる。図が追加されたり、読み易くなるように丁寧に手が入れられたりしている。「生物の樹・科学の樹」のときの感想は以下の記事以降に書いた。「生物の樹・科学の樹」の感想 - ebikusuの博物誌

例によって、書かれている内容のすべてを理解しているなどとは思わないのだけれど、食いつき易いところから、書いてみたい。今回は自分の感想のメモだと思って、思いついたことを大胆に書いておきたい。この記事を三中さん自身がチェックするに違いないのだが、読み間違えているところがあれば、また追記や新たな記事などで訂正したい。


まず、題名の「分類思考の世界」というのは、少し矛盾に満ちたものだろう。tree thinking に対するものとしての group thinking ということで、これは、Mayr の population thinking に対する typological thinking との対比を踏まえたものだから、tree thinking からすれば、捨て去るべきものだろう。そうだとすると、「系統樹思考の世界」の姉妹編として、否定するべきもののために1冊を書いたことになる。さらに、本の中で“本質主義物語”を紹介することによって、そのような Mayr の対比=決め付けを、陰謀めいた話として紹介している。結局、著者のいう「分類思考」というラベルで示されたものが、なにを指しているのかわかりにくくなっている。

おそらく、そのような限定された group thinking (sensu O'Hara)だけでなく、grouping なり classifying 全般を扱っているつもりなのだろう。そして、その文脈の中で「種」というものも論じられている。taxonomy が、分類に関する理論的研究だとすれば、「具体的な taxa を扱わないtaxonomy」というのが、本書の位置づけにぴったり来ると思う。

系統樹思考」では、歴史を論じる方法論や作法について、明確に語るべきことがあったのだろうが、「分類思考」では「種」を真っ向から否定するのかと思ったら、そうではなくて、ヒトの心の中や思想の系譜について語ることによって、「分類する者」の側に話をもって行きたいらしい。それで、結論がどこか見えにくくて、エピソードの羅列で終わっているように読み取れる。

心理的本質主義を持ち出して、それは人の性(さが)なんだと言われれば、認知心理学の詳細を知らない者には、はいそうですかと、ひとまず沈黙するしかないだろう。心理的本質主義の根深さは認めたとしても、心理的本質主義が“どれくらい”人間の認識を制約しているのかを問いたくなる。人間の“あらゆる”認識が、心理的本質主義が作り出した幻影とでもいうのだろうか。なによりも、人の生得的性質だなどとと決め付けること自体が、新たな本質主義ではないか。

メタファーとメトニミーなどのレトリックに関することは、先の「生物の樹・科学の樹」以来、私自身もずいぶんと影響されて、少しは勉強もした。メタファー的な体系化とメトニミー的な体系化が、それぞれ「分類思考」と「系統樹思考」に対応しているという。グッドマンの類似性の否定からメタファーを論じ、ギンズブルグの話ではメトニミーによる推論を紹介している。系統樹思考を標榜する著者の立場からしても、メトニミーのことを持ち上げて「分類思考」を否定しているのかと思ったら、どうもそうでもないらしい。メトニミー的体系化さえも、秘匿された“全体”を読み取ることから、心理的本質主義の根深さに話をもって行きたいらしい。

「分類思考における群(タクソン)の認知は可視的な類似度に基づく」などと言われると、よほどのタイポロジカルな考えを信奉している人でない限りは、一面的だと思えるのではないか。むしろ、種タクサはメトニミー的認識の対象であり、種カテゴリーはメタファーの対象だと思える。ついでに、リンネ式階層はシネクドキそのものだろう。また、Ghiselin のいう class はメタファー(→シネクドキ)で、individual はメトニミーとして認識されるものだろう。しかし、このような対応を示すだけで話を締めくくってしまったのではおもしろくない。

メタファーもメトニミーも、喩えられるものと喩えるものとの間での言い換えの文彩であり、その背景にある理屈として、メタファーは類似性に基づき、メトニミーは隣接性に基づくものであるとされる。そこまで遡ってしまえば、そのような関係性が、対象の性質に依るものか心に依るものかを問うことは、認知科学の重要なテーマになるのだろう。ところが、類似性や隣接性は、生物分類の実際の場面でも常に問われて来たことだろう。隣接性は、生物のあらゆる関係性に当てはまるものだろうが、具体的な場面でどのような関係性があるのかを指摘しなければ意味がないだろう。結局、分類の作業自体に即して、メタファーやメトニミーがどう作用しているのかを説明するのでなければ、大仰なレトリックの単語を並べたところで、単なる言いっ放しになるのではないか。だから、上の私の対応の図式も単なる言いっ放しだろうと思っている。

「分類思考の世界」の本全体が、まさにメタファーだらけではないか。それは、文のスタイルとして意図的にそうなったところもあるのだろう。しかし、そこで語られている思考の系譜やタクサの認識は、メタファーで語られるべきことなのだろうか。もちろん、メタファーも悪いものではない。それは、新たな発想を促すものなのだから。