動物分類学30講

タイポロジカルな例として「動物分類学30講」という本を取り上げたい。この本は、まさに日本を代表する分類学者が書いた教科書で、非常に重要な項目やテーマが多数取り上げられているのだが、あまりにも大胆な断定やら、間違いやらで、つっこみどころ満載となっている。漢字の間違いやら英語のスペルミスなどは、枚挙にいとまがないという感じなので、エイやーと作って、そんなに推敲する時間もかけていないのかも知れない。そんな本に、いちいち目くじらを立てるのもどうかと思うのだが、簡単なことをわざわざ難しく述べたり、著者自身が問題点を理解していないのではないかと思えるところがあったりして、こんな本に悩まされる若い学生が気の毒なので、目についた問題点を取り上げて行きたい。

今回はタイポロジカルな実例として、「タクソンとはクラスである(p90)」とあっけらかんと断定している部分を、取り上げたい。

たとえば、‘ヒト’はクラスで‘私’や‘あなた’は個物、‘鉛筆’はクラスで‘この鉛筆’や‘あの鉛筆’は個物である。(p90)

この部分で、一応はクラス(class)と個物(individual)との対応にも言及しているわけだから、Ghiselin の議論についても知らない訳でもないのだろう。そのうえで、「ヒトはクラスだ」とか、「‘Sternomoera japonica という種’もクラスである」などと断定できるのだから、なんとも大胆である。

どのようにクラスとそのメンバーを決めるつもりなのだろうか。クラスタリングなどと言っているが、これもよくわからない。形態を重視しているようなのだが、似ているから同種、違いがあるから別種というのだろうか。例えば、ヒトを分類するときに、卵や、胎児や、雄と雌、生きている個体やら、死体やら、骨や臓器の一部やら、そのようなあらゆるヒトの存在を、どのような理屈でひとまとめにするのだろうか。形態を重視しているようだから、DNA の配列にエッセンスがあるというのでもなさそうだし。

生物の分類を実践する場面では、過去のタイポロジカルな発想を引きずっている部分も多い。よほど意識をしなければ、タイポロジカルな論理に絡め取られてしまうことにもなりかねない。この本の著者は、自分のことをタイポロジカルではないと思っているに違いない。しかし、ナイーブな思い込みだけでは、タイポロジカルであることからは免れない。この本では、分類学の実践面を強調しているわけだが、そうすることによって、タイポロジカルであることに居直っているではないかと思えてくるほどに、タイポロジカルな発想に満ち満ちている。